「県治方向」の一節に、「桑は地味に合わざるに似たり。いまだよく繁茂するものを見ず。」と嘆ぜられた養蚕業が、特に後期に著しく発展し、農業の近代化を推進した。
明治十一年(一八七八)、県立勧業試験場が亥鼻山に設置され、二町七反の畑地に、果樹、くり、紅茶、藍などをつくったがすべて不振の中で、桑の生育が良いので希望者に配布した。同場では蒸気機械をすえつけて製糸伝習生の養成を始めたが、十四年廃止されるまでに二十余名が指導を受け、各地に伝習の実績を広めた。明治二十年(一八八七)船越県令は、県下に一大物産を興し、農業経済の一変を期して、福島県、群馬県から百万本の桑苗を求めて払下げするなど、養蚕の奨励を行ったが、民間の自主活動を促すことが、廃止の趣旨であった。十七年には農産比較談話会が千葉町で開かれ、翌十九年には組合規約がつくられ、二十年、千葉・市原の連合組合が結成された。有志は率先して、啓発誘導に従い、養蚕の有利さを認めるものが次第に増加した。
明治二十一年五月の『房総新聞』によれば、千葉町鈴木利兵衛が有志に桑苗三十余万本を貸与、上泉村千脇源八郎、中野村林亥之助らが蚕業に従事して改良を図り、公利を増進したということで顕彰されている。
『明治三十三年千葉県勧業年報』によると、千葉郡内の養蚕戸数は一、二九七戸で、一戸あたり二・二反の桑畑をもっていた。四十二年には養蚕戸数は一、九二〇戸に増加したが桑園は二五三町歩であった。全戸が春蚕を実施し、夏蚕は二割、秋蚕は四割位の飼育率であった。天然育から炭火を利用する高温育も工夫されたが、明治末年には気候に順応しようとする折衷育が一般的となった。蚕種は良質な上信地方からの移入に頼っていたが、明治末には四割程度自給するようになり、千葉郡内にも蚕種の供給者が二戸もあった。発足したばかりの郡長会は、明治二十八年にいわゆる「蚕業三要項」を定め、桑園の改善、蚕病の消毒、稚蚕の共同飼育を奨励している。
明治三十一年(一八九八)に刊行された『千葉県蚕業家名誉鑑』に登載された千城村大宮の豪農若林半左衛門の事蹟を紹介しよう。彼は弘化二年(一八四五)農家に生れた。先進諸県を視察して十一年に蚕業を始めた。村内有志に勧誘、農家子女にして空手、坐食するものなしと称された。村内に一定の方針をとらせ民益を増すことに努め、また信州戸隠地方にあった便利軽快なかごを、養老川上流の篠竹で、五井の職人を雇って模造させ、神奈川、八王子方面に売りだした事業家でもあった。その他盛城会という実業団体を組織し、肥料の共同購入、良質のいも種の導入、旱害克服のため井戸掘りをするなどの功労が著しかった。明治五~十七年まで正・副戸長を歴任、同二十五年県議選出、二十八年には千葉・市原第一蚕業組合長に就任している。
若林の経営する製糸所は釜数一五であったが、郡内には他に、園生の石橋善三郎五〇釜、千葉町柴崎清吉二〇釜、誉田には三枝八十太郎五〇釜があった。器機座繰り経営で、釜と同数の工女を雇っていた。
蚕業はその後、大正から昭和初期にかけて、全県的に普及していくが千葉郡は東葛飾郡とともに、県下水準を下廻っていた。台地地帯に広がり、農家第一の副業であったが、千葉・東京間の鉄道開通による輸送の便と、台地を占居して軍隊が設置され、千葉町の人口増加と相まって、野菜栽培が盛んになってきたことが、その主因であろう。