農業一般

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 外国との取引、知識や技術の流入により利潤を挙げていったのは、先に示した若林、白井など少数の地主階級に属するもので、大きな構えの長屋門と黒板塀に囲まれた豪壮な屋敷が、その象徴である。長屋門は二階建で、作業場、物置き、下男などの宿泊に宛てられる。今、更科町にまとまって数戸残され、往時の盛況を偲ぶよすがとなっている。米価下落の不況時代の一般農民は、収入の少ないことを量の増加と、副業によって補充するために、勤労と節約が奨励された。多くの農家は家貧しく、資材も乏しく、ただあくせく働らくのみであった。明治三十六年七月の『農友』誌によると次のような動きがあった。
 たまたま昨年のような不作があれば、食料・薪炭料にも乏しき地方あり、一家離散の悲惨を来すものもある。本年麦作も春以来の降雨のため、不作を予期できる。よく働き、よく稼ぎ、金銭と時間を貴んで貯蓄するに努むべし。


明治27年ごろの千葉町の豪農の住宅(『日本博覧図』より 旧千城村の若林半左衛門家)


長屋門(金親町 石井氏宅)

 犢橋村広尾区では同年二月、総会の決議で農会貯金部を設立し、農事の改良発達を図る資金にあてようとした。一口一〇銭、毎月一日に集金、一括して銀行に預金する。加入者三四名、同年四月には誉田村高田に、勤倹貯蓄会が一五名で発足した。
 文明開化による欧米からの技術、作物の導入は、内務省勧業局三田試験場から払下げの形で導入された。二次にわたるシナ大陸における戦役が、野菜品種の改良に役立ったようである。新技術移入の一例として、明治八年寒川村で、西洋農学者津田仙が禾花媒助の法を施すの一項が、『県立農業試験場六十年史』にみえる。津田は佐倉藩の士族出身で、明治六年ウイーンに出張、新知識を得て帰国してから「農業三事」を著し、東京麻布に学農社を建立、農業雑誌を発行した。世に伝える津田繩は、一本の繩に羊毛を数多く垂らし、蜂蜜を塗って開花時に張り、人工的に交配を促す方法であった。当時、農民はこれを争って求めたが、結果は香んばしからず、翌九年、県令は職権をもって販売を禁止したという。
 西洋農具は、水田を中心とする小規模集約的な経営には役に立たなかった。過燐酸肥料だけは効果が明らかであったから重要視され、初めアメリカからの輸入、明治二十年(一八八七)には東京に渋沢栄一らによる東京人造肥料会社が設立され、これから移入されるようになると、農家の現金支出の増加が激しくなった。明治四十一年度の千葉郡内肥料使用状況は、総額五万七三八〇円、一戸当たり平均七円前後のうち、燐酸肥料が四一パーセントを占める。油粕は四三パーセント、魚肥は僅か五、八〇〇円であった。
 明治三十八年十一月の『農友』誌によると、郡内農家の規模は一町歩内外で、畑地が六割に近い。収入は二五〇円前後で一割の公課を差引き、県内の最下位にあった。水田一毛、畑は麦とさつまいもの二毛で作付されていた。収納にはおよそ三割位の肥料・種子代が要るので、公課負担を差引いた一戸当たり金額、二二三円が一五六円となり、家族員平均六人であるから、農民一人の生活費は二〇円位にしか当たらなかった。農業改良には資本と技術が必要であったが、個人の努力する方向を明らかにするため、収支損益計算、労働作業内容の分析が行われた(五―二三表参照)。
5―23表 農家経済指標・反当収支比較
項目水稲大豆甘しょ
支出小作料12円68銭
(玄米9斗6升)
1円99銭2円38銭3円49銭
器具損耗23銭17銭21銭21銭
種子,苗つる33 
(6升8合)
22 
(2升5合)
98 
(6500本)
20 
肥料5円40銭― 1円24銭2円41銭
労賃(整地)2円60銭15銭― ― 
(施肥)85 ― 20銭84銭
(播種,植付)1円35 18 31 ― 
除草,中耕44 55 95 1円96 
利水45 ― ― 
収穫94 28 1円12 42 
運搬38 40 1円15 1円07 
調整1円24 99 ― ― 
俵装23 24 1円01 
27円12銭5円16銭9円76銭10円60銭
収入玄米20円81銭
(1石9斗)
6円11銭
(8斗3升)
8円84銭
(376貫)
(桑葉407貫)
ワラ1円36銭42銭つる38銭14円33銭
モミガラ54 
22円71銭6円53銭9円22銭14円33銭
収支損益△   4円41銭△   1円37銭△   46銭
  1. 注 1 斯道に熟練な5氏の過去3か年平均に郡として酌量を加えた。
  2.   2 労賃は男1人25銭として計算してあるが,家族労賃が収入とみなされる。

(昭和33年2月 千葉郡農会『農事研究録』第1号)


 経験のみを土台とする古老は、次第に影が薄らぎ、科学思想に鼓吹された改良法でなければ、時運の進歩に取残されることとなった。
 労働集約的な固有農法から抜け出そうとする工夫は、明治十五、六年ころから有志の談話会、農作物の品評会、共進会の形をとって、相互の経験や種子、苗木の交換を盛んにした。明治十九年(一八八六)には、県主催による関東連合共進会が千葉町でもたれ、他県との比較を通じて、農民識者に大きな刺戟を与えた。
 このような内外の事情を反映して明治二十七年(一八九四)には郡単位の農会、翌二十八年に県農会、降って三十年代後半には町村単位で組織され、一貫した系統的指導が行われるようになった。
 県農会の講習修了者を中心とする農事研究会が、明治三十四年に結成を見、機関誌『農友』には、当時の研究成果が数多く掲載された。
 「千葉町長会は会員五百名をもつ大組織で、月三回の野菜品評会、野菜の模範試作農場を経営した。会長秋元惣兵衛(千葉寺区長)は、代々佐倉藩領の総代名主を勤めた旧家(通称与惣兵衛)の出身、第一流の富豪であった。
 彼は副業を奨励して農家の困苦を救い、勤倹貯蓄の美風を養成、風儀の改善に努めた。叺(かます)・筵(むしろ)を織る機具百台を購入、会員に永久無償で各自一台づつを貸与し、一枚につき必らず一銭の貯金をさせ、納税及び肥料代に充当、好成績をあげた」(大正五年刊『房総町村と人物』)。また同書によると郡農会副会長飯豊利一は、浜野の名門かつ豪農の出身で、明治法律学校で法理を研究している。三十年以来郡会議員に当選五回、二十有余年その職にあるほか、村長に二度就任している。県農友会、大日本農会より農事奨励の実行顕著なるの故で賞状を受けた。
 前述した広尾区長は、やはり代々名主その他の公職をつとめ功労あった家柄の出で長岡承平といった。明治二十六年千葉中学校卒業後、三十三年には農商務省からヨークシャー種牝豚の払下げを受けて、地方養豚の改良を図った。三十一年以来、自家小作人三十余名の小作米品評会を開き相互に批評審判させて指導を加えた。小作保護のため配付用苗代を設け、あるいは不作年には割引免除を行うなど、表彰すべき業績が多かった。
 明治二十二年町村制施行により、近世以降の自然村は平均七カ村が一つの行政村として統合される。しかし、これまでに存在した村は結合のシンボルとして氏神の社をもち、水利や農作業を共にし、林野などの財産を所有していたので、部落、区、大字(おおあざ)としてかなりの自治機能を営んでいた。
 村の指導者は財産の多少によるだけでなく、家系や伝統を背景にしていた。戸長、区長、村会議員などの役職には事実上これら以外には求むべくも無かった。多くは上層数戸の均衡を保って輪番制で当たっていた。一般農民はその支配がどのようであっても、共同体的強制を受けた。本家や地主のただ善意に頼るだけの生活であった。明治三十五年度末、郡農会の調査報告によると、純小作は三七パーセント、自・小作四三パーセント、自作は七千二百戸の農家中一九パーセントであった。小作が多いのは千葉町、生浜、蘇我、都。自作は更科、都賀、白井の三村で、千城、誉田、幕張、犢橋はこれに次ぐ状態であった。中堅指導者として講習会修了者は、明治四十二年末で六三二名、三十二年に設けられた県立農学校(茂原)の卒業生は二一〇名で、それぞれ郡内農民の二及び〇・七パーセントとなる。
 このような農業体制の下で、どのような農産物があったかを五―二四表に示した。自給経済時代の名残りが衰退し、根菜、瓜類などが面積からみて全県的にぬきんでているが、販売の金額は小さく、明治末年には他郡の隆盛に押されて、相対的な比率が低下した。このころ新作物として登場するものは、そら豆二三一町歩(一五パーセント)、自然じょ三町歩(二一パーセント)、玉ねぎ三町歩(五四パーセント)、キャベツ一町歩(三〇パーセント)であり、三反歩程のトマトが作付されていた。肥料は金肥について、その構成を前述したが、自給分の重量からみると、堆肥一、〇八七万貫、屎尿三六万貫があり、金肥は三〇万貫程度にすぎない。
5―24表 千葉郡内 主要農産物比較表
産物名作付反別同県内における収穫高金額
町歩比率千円
水稲3,8823.846.8千石496.5
陸稲2979.21.8〃16.0
大麦3,3158.162.8〃241.9
小麦1,48110.418.2〃127.5
えん豆529.57.90.5〃4.0
菜種78229.615.89.0〃76.4
ひえ6014.50.7〃4.5
もろこし3411.59.50.4〃2.1
さつまいも3,46927.327.47,284.7千貫291.4
ばれいしょ19548.226.3478.2〃23.9
里芋9010.011.3225.5〃15.9
人参4516.312.0117.5〃5.9
ごぼう5112.310.4153.3〃6.9
白瓜6216.913.3174.2〃6.9
南瓜4911.79.2182.0〃8.2
西瓜15130.318.4499.6〃44.9
甜瓜6217.811.2218.0〃18.5
  1. 注 1.太字で42年の数値を加えた。
  2.   2.対全県比10%を目途にした。畑地面積そのものは8.5%である。
  3.   3.金額1万円を越える産物はほかに大豆,小豆,粟,そば,大根,なす,葉藍がある。

(明治33年度分『勧業年報』)


 明治三十九年県農友会による第一回農産物品評会では、出品一、五〇七点中、米が六二四点、雑穀・麦・豆類が一九六点、野菜は二二五点であったから、当時の農業はまだ主穀中心であった。白井の大麦と陸稲が特選、千城のうるち米が三等に入選した。また、郡農事研究会で明治三十六年に調査した特有物産として、塩田の葱ときゅうり、天戸の里芋、幕張の甘藷、検見川の豚、都賀のなす、千城の薪炭材、誉田、白井、更科の木炭が名を連ねていた。