水稲栽培

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 水稲栽培技術の発展は農業近代化の主流をなすもので、農家のすべてが関心を払い、増収への期待をもっていたから、農会の指導や雑誌記事、農談会の苦心談に多くの主張と実践がみられた。牛馬耕の奨励は明治二十一年(一八八八)、県主催で有志に伝習したことに始まった。三十八年には巡回教師を派遣したが、谷間の低湿田が多く、作業は困難で普及を見なかった。低湿地を冬期乾田化しようとする努力は、大宮の人大塚宗之助が長野県より稞(はだか)麦種子をとりよせて実験して、明治三十年反当たり二石二斗に近い収入をあげ、この分は小作料負担が無いので純利益が大きかったという。三十八年には県農会でも奨励するが、二毛作は緑肥裏作も含めて七パーセント程度しか進展しなかった。
 福岡県の人益田考平は、「めい虫」の生態を研究し、越冬期の稲株中に潜む卵を焼払えばよいとして、二化めい虫の駆除法を工夫したが、千葉県でも、害虫駆除予防のことが、明治二十九年に法令化し村中総出で採卵することを強制され、届出、警察官の臨検、怠るものへの罰則があった。四十二年(一九〇九)には一個一厘で奨励買上げをしたところ、千城から一五万、都村から一九万の送付請求があり、一五〇円の予算が底をついて、郡長会参事会が悲鳴をあげたという。
 明治三十四年には県より耕地整理の補助規則が示された。静岡県より技師が招かれ、三十九年には技術伝習のこともあったが、千葉郡内では着手が遅かった。初年度県内で発起認可を受けた五五カ所のうち、千葉郡内では遍田(鎌取駅の東)の五町歩、反当たり七円七〇銭、遅れて三十七年(一九〇四)には、浜野・村田の二地区約百町歩が反当たり四円七〇銭程の経費で認められていた。
 東京駒場農学校付属農場の監督であった船津伝次郎は、尾西地方にあった蓮華(れんげ)つくり、埼玉西郊の春そばまきを発掘普及するとともに、泰西技術理法による塩水選を奨めた。いわゆる稲作三要項という形で、系統農会の指導ルートにのったのは、千葉県では明治三十七年のことである。四十一年『農友』によると、その実施状況は次のようであった。
 
 塩水選は各郡とも八〇パーセントを下る所なく、今少し奮発すれば実行戸数完全普及も難事ではない。短冊苗代もおおむね行きわたっているが、千葉郡では実施していない。正条植えは戸数で九割、反別八八パーセントになったが、東葛飾郡は最低で四五パーセント、千葉も努力を要する。共同苗代は平均して三〇パーセント、前年比五パーセントの伸びであるが、海上、千葉の如きは一カ所も無い有様である。

 県下産米は乾燥不十分、品質まちまちの上、俵装不完全ということで、東京市場では中等以下の評価を受けていた(五―二五表参照)。
5―25表 郡農会第2回品評会入賞作品にみる稲の品種
町村名特賞一等二等三等四等
千葉雲州関取
幕張新森
検見川関取
蘇我中谷中谷
生浜関取関取関取
椎名須賀1本須賀一本
誉田高崎味噌樽もち陸米ビックリ
更科寒川早生
肥後
東錦
白井関取関取吉川陸米
犢橋古峰か原トラノオ
都賀早稲もち
  1. 注 系統組織にもとづき,各町村の優良品を集めたので普通品評会とは異なる。前年に比し出品総数は倍増して328点,うち215点が米であった。受賞64点中の上位等級のみを掲げている。郡内では千城村がみえない。

(『新総房新聞』明33.2.20日付紙)


 明治四十二年稲の品種統一に着手、四十四年千葉郡は白井村に採種田の設置をみた。続く大正時代には「愛国、晩生神力」が四分の一を占める程度に改良されていった。この愛国なる品種の確立、千葉郡内の導入ルートが、千葉県農会機関誌『愛土』大正三年一月号に掲載されていたので、当時農民の生活相がうかがえる。
 関東で広く栽培される愛国種は、もと広島県で発見された。宮城県船田村の人飯渕七三郎氏は貴族院議員で、明治二十七年、臨時議会の招集を受け広島に赴いた帰途、水田中から見つけた雑種である。病虫害、風害に強く〝奥州中生、ききん知らず〟と称されていた。武石の小川長右衛門は出羽三山詣での折、白河より一升の種を持帰って試作したところ好評であった。これは明治三十一年の頃という。
 君津郡巌根にも同じ方法で伝播した種子があり、千葉寺の大川良之助なるものが、君津地区に行商、物交して入手した。東葛飾地域は茨城より隣接のよしみで入手、千城村の湯浅定右衛門らは農事視察で話を聞き、農会経由で入手した。
 これは三十二年および三十六年の事情で、いかに迅速に普及したか、いかに農民が安定した増収品種を希求していたかということが分明となった。