山林面積 | 原野面積 | 山林と原野の総面積に対する比 | 5町以上の所有者数 | 昭和11年度の左記と同じ比率 | |
町 | 町 | 人 | |||
千葉町 | 122.7 | 6.4 | 21.4 | 7 | 7.1 |
蘇我町 | 184.6 | 8.5 | 33.5 | 9 | 26.6 |
生浜村 | 175.5 | 24.2 | 26.6 | 7 | 26.5 |
椎名村 | 251.1 | 7.6 | 41.0 | 14 | 41.9 |
誉田村 | 1,006.3 | 27.5 | 59.0 | 29 | 53.7 |
白井村 | 1,170.0 | 28.2 | 63.5 | 40 | 57.2 |
更科村 | 1,062.1 | 51.4 | 61.1 | 37 | 52.7 |
千城村 | 782.9 | 9.7 | 54.1 | 33 | 50.2 |
都村 | 682.2 | 31.9 | 60.1 | 15 | 43.5 |
都賀村 | 449.0 | 18.7 | 38.4 | 23 | 32.8 |
検見川町 | 33.8 | 7.5 | 5.7 | 2 | 5.7 |
犢橋村 | 627.7 | 7.1 | 49.0 | 18 | 37.4 |
幕張町 | 216.0 | 7.2 | 20.2 | 6 | 16.6 |
土気町 | 882.7 | 680.3 | 68.4 | 57.7 |
明治以降の開墾は、大正元年度においても三九〇カ所で一〇八町歩の実施をみている。大正末期から昭和の不況時代には、一時的な農村への人口還流があり、再び開墾が盛んとなった。この間の進行状況は昭和十一年(一九三六)の山林率との対比により知られる。以上の民有林のほかに、五二〇カ所にわたる社寺有林が一二二町歩、一二三カ所の公有林五一町歩、稲毛から幕張に及ぶ海岸松林を主とする国有林八・五町歩があった。大正五年刊の『千葉郡土地所有者名鑑』により、山林地主の顕著なものをあげると、都村遍田の足立ウメ四五町、都賀村園生の石橋善左衛門五七町、犢橋村柏井の川口中丸七〇町、白井村高根の宍倉謙七七町が見出される。山林は戦後の農地解放の対象とはならず、最近に至るまで温存され、住宅団地や内陸工業建設用地として委譲されることになった。
山林所有者はもちろん、山林を借受けて経営するもの、単に労働を提供して賃銀を得るもの、合わせて六、九四一戸が、明治四十二年『統計書』に記録されている。これは農家の約七割に相当し、そのほとんどが林業の一端にたずさわっていた。なお鳥獣猟者六五人が居り、鳥二、六一四、獣一六八頭を狩した。
明治四十二年、大正元年の『統計書』を総合すると、約千カ所で七〇~九〇町歩の用材伐採が進行し、尺〆六~八千石の材積、二万円前後の収入であった。択伐が主で、皆伐は二割位、松が六割を占め、ついで杉が多かった。これらは東京方面の土木建設、電柱用として販売された。薪炭材は五~六百町前後、三分の一は皆伐され、以後松七、杉二、くぬぎなど広葉樹一の割で植林された。全県の森林面積に比し、七パーセント弱の比率だが、薪は八パーセント、木炭は一六パーセントを出荷し、千葉郡林業の特色を示している。松を始めとし、くぬぎ、なら、かしの広葉樹が利用された。明治四十二年(一九〇九)の数値で、薪一万九千柵、約一〇万円、量の七割は松で、金額的には六割弱であった。
木炭は三六・四万貫、四万円。ならが四〇パーセントを占める。年を追って次第に資源不足となり、跡地は松杉に代えられていった。桐の下駄材、杉皮、竹材の産出も著しかった。原野の副産物として、干草、牛・馬飼料としての生草の産出も一万円を上廻り、計上記録されている。
『千葉郡誌』によると、大正九年にはこれら林産物は、ほとんど地域内で消費され、用材木炭など東北より供給を仰ぐ状況になった。