林業

251 ~ 252 / 492ページ
 明治四十二年の『統計書』によると、千葉郡内には八、九八三町歩の山林があり、その所有者四、七一〇戸を数え、平均一戸当たり一・九町となるが、その所有面積別階層分化は著しかった。五―二六表により町村別の面積と山林残存率を理解したい。
5―26表 千葉市域の山林・原野(大正2年町村別)
山林面積原野面積山林と原野の総面積に対する比5町以上の所有者数昭和11年度の左記と同じ比率
千葉町122.76.421.477.1
蘇我町184.68.533.5926.6
生浜村175.524.226.6726.5
椎名村251.17.641.01441.9
誉田村1,006.327.559.02953.7
白井村1,170.028.263.54057.2
更科村1,062.151.461.13752.7
千城村782.99.754.13350.2
都村682.231.960.11543.5
都賀村449.018.738.42332.8
検見川町33.87.55.725.7
犢橋村627.77.149.01837.4
幕張町216.07.220.2616.6
土気町882.7680.368.457.7

 明治以降の開墾は、大正元年度においても三九〇カ所で一〇八町歩の実施をみている。大正末期から昭和の不況時代には、一時的な農村への人口還流があり、再び開墾が盛んとなった。この間の進行状況は昭和十一年(一九三六)の山林率との対比により知られる。以上の民有林のほかに、五二〇カ所にわたる社寺有林が一二二町歩、一二三カ所の公有林五一町歩、稲毛から幕張に及ぶ海岸松林を主とする国有林八・五町歩があった。大正五年刊の『千葉郡土地所有者名鑑』により、山林地主の顕著なものをあげると、都村遍田の足立ウメ四五町、都賀村園生の石橋善左衛門五七町、犢橋村柏井の川口中丸七〇町、白井村高根の宍倉謙七七町が見出される。山林は戦後の農地解放の対象とはならず、最近に至るまで温存され、住宅団地や内陸工業建設用地として委譲されることになった。
 山林所有者はもちろん、山林を借受けて経営するもの、単に労働を提供して賃銀を得るもの、合わせて六、九四一戸が、明治四十二年『統計書』に記録されている。これは農家の約七割に相当し、そのほとんどが林業の一端にたずさわっていた。なお鳥獣猟者六五人が居り、鳥二、六一四、獣一六八頭を狩した。
 明治四十二年、大正元年の『統計書』を総合すると、約千カ所で七〇~九〇町歩の用材伐採が進行し、尺〆六~八千石の材積、二万円前後の収入であった。択伐が主で、皆伐は二割位、松が六割を占め、ついで杉が多かった。これらは東京方面の土木建設、電柱用として販売された。薪炭材は五~六百町前後、三分の一は皆伐され、以後松七、杉二、くぬぎなど広葉樹一の割で植林された。全県の森林面積に比し、七パーセント弱の比率だが、薪は八パーセント、木炭は一六パーセントを出荷し、千葉郡林業の特色を示している。松を始めとし、くぬぎ、なら、かしの広葉樹が利用された。明治四十二年(一九〇九)の数値で、薪一万九千柵、約一〇万円、量の七割は松で、金額的には六割弱であった。
 木炭は三六・四万貫、四万円。ならが四〇パーセントを占める。年を追って次第に資源不足となり、跡地は松杉に代えられていった。桐の下駄材、杉皮、竹材の産出も著しかった。原野の副産物として、干草、牛・馬飼料としての生草の産出も一万円を上廻り、計上記録されている。
 『千葉郡誌』によると、大正九年にはこれら林産物は、ほとんど地域内で消費され、用材木炭など東北より供給を仰ぐ状況になった。