日清戦争前後

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 わが国では、日清戦争を契機として、工場建設が促進されたが、工場数の増加率よりも、蒸気力を備える工場の増加率の方が大きかった。
 明治二十九年(一八九六)~三十三年ころの工業内容を、工業全生産額に占める部門別生産比率でみると、第一位は紡織の四五パーセント、二位は食料品の三三パーセント、化学の七パーセント、金属の五パーセント、機械の一パーセントであった。
 当時の工業発展の中心は、紡織を主とする消費材部門であり、金属・機械・化学という重化学工業部門は誠に貧弱であった。
 明治三十三年には、紡織関係の工場が、工場総数の七〇パーセント余りを占めていた。紡績は、政府の保護などにより、機械化・大型化が最も進み、日清戦争のころには、ほとんど機械制工場で製造されていた。製糸は、器械製糸の生産高が、坐繰(ざぐり)製糸のそれを追いこしたのは、明治二十八年(一八九五)であった。このころには、工場制手工業から出発した機械制工場の大経営が出現している。
 ただ、機械制工場が支配的になったとはいえ、一方では、多くの家内工業が残っていた。織物は、工程の複雑さ、品種の多様さ、長い職人的伝統などから、一番機械化が遅れていた。明治二十九年には、豊田式力織機が完成したが、一般に力織機が広く用いられるようになったのは、日露戦争以後のことであった。織物部門で多少の遅れはあったものの、日清戦争を契機として、その後の一〇年間に、紡績業を中心とする繊維産業界で、わが国最初の産業革命が、進行したのであった。
 以上のような全国的な動向の中にあって、わが県の状況はどうであったかを知るため、県下で比較的広範囲に行われていた製糸業を、明治三十年についてみると、五―二八表のようであった。
5―28表
製糸戸数生糸生産
製造所自宅器械取り

其他

明治27年551,9783,1503,937
明治30年482,8557,6528,984
 千葉郡236251358
 山武216673,2963,941
 印旛63181,480848
 匝瑳51561,236
 香取4215495989
 夷隅394725116
 東葛2178414120
 市原1102405293
 その他4

(明治30年『千葉県統計書』)


 生糸製造所は、わずか四八であり、一方、自宅製糸が二、八五五と圧倒的に多かった。二十七年と比較すると、製造所は減り、自宅製糸は、九百も増加している。生糸生産法では、器械取りが全生産の四六パーセントであった。
 二十七年と比べると、器械取りは、二・四倍余りとなったが、その増加率は、その他の方法によるものと、大差はなかった。全国的には、すでに、二十八年には、器械製糸がその他を追い越していたのであるから、わが県の場合、機械化の度合が劣っていたといえよう。
 県内で、器械取りが多いのは、印旛・夷隅・東葛・市原の各郡であった。
 三十年には、県下に製糸会社は五社みられたが、それは、小櫃(おびつ)村・長柄村・横芝町・松戸町・佐倉町に分布した。千葉郡は、製造所・生糸生産高共に少なく、とるに足らなかった。器械取りの割合も、県平均に及ばない。
 総体的にみて、千葉郡地域は、製造業が盛んではなく、内容的にも、低い発達段階にあったといえよう。
 なお、当時千葉町には、澱粉・白玉粉製造の大石合資(創立明治二十五年、資本金二千円)、量器製作の千葉量器(三十年創立、資本金一万円)、衡器製作の大野深沢合名(三十年創立、資本金五千円)の三製造会社の存在が記されている。
 日清戦争後の、わが県の製造業をみると、三十四年十二月現在で、県下総戸数二一万七九五八戸、うち製造業は二万一四四三戸、総戸数の約一〇パーセントであった。
 製造業専業は、六千六百戸、全製造業戸数の約三一パーセントである。
 千葉郡は、製造業戸数一、七〇四戸、うち、専業が八〇八戸で四六パーセントを占めていた。この専業比率は、県下最高であった。製造業専業従事者は二、六九九人、専業一戸当たり三人強であるが、これは、県平均よりやや劣っていた。明治三十六年(一九〇三)の県内製糸・織物業のようすをみると、
 製糸業 三十年に比べ、製造所数はほとんど変わりないが、自宅製糸が二千百戸増加した。生糸生産高は、増大したが、器械取りの比率は、四五パーセントで、変化はなく、製糸業での近代化は、ほとんどみられなかった。千葉郡では、製造所が消え、すべて坐繰(ざぐり)製糸となり、生産高も半減した。
 機業 機業戸数は全県で、二、四五三、うち、賃織が八九パーセントにも達し、製糸同様副業的な家内工業によるものが中心であった。
 織機は、手織機三、三五〇台に対し、器械はわずか五一台にすぎず、織物部門の機械化は、全国的に遅れていたとはいえ、わが県では、全く手工業の段階にとどまっていたのである。
 千葉郡では、機業戸数わずか四戸であったが、器機が一三台あり、この面では、先進地域であった。いずれにしろ、千葉郡は、製糸・機業に関しては、県下で最も劣っていたのである。
 わが県の製造業の中心は、何といっても醸造業である。醸造業の生産総額は、七三〇万円余りで、これは生糸産額の約六倍弱であった。醸造での第一位は、醤油で生産の中心は、東葛飾郡である。千葉郡は全県の二パーセントを産出した。
 醤油に次ぐのは酒類で、香取郡・東葛飾郡がその中心地域であった。
 千葉郡は、酒類生産で県下最低であった。県の主産業である醸造部門でも、千葉郡の地位は低かった。
5―29表
地域製造戸数

生産価格

千円

醤油全県5961004243100
東葛519222852
君津771342210
……
千葉234842
酒類全県6341002399100
香取1672649921
東葛611044218
……
千葉203542

(明治36年『千葉県統計書』)


 わが千葉郡の県下にほこれる製造業は、澱粉・貝殻灰・佃煮の三製造業であった。
 ただ、県下に占める生産比率が高いとはいえ、生産額は必ずしも大きいものではなかった。
5―30表
地域生産高生産額
百貫百円
甘薯澱粉全県35991001178100
千葉356299116799
香取247
馬鈴薯澱粉全県941100531100
千葉9389952999
海上32
貝殼灰全県6214100227100
千葉42626913760
東葛1074174620
佃煮全県201100159100
千葉26133220
市原138699459

(明治36年『千葉県統計書』)


 澱粉製造 明治二十年代に、人力しよう砕機が普及して、高能率化した澱粉製造は、その後も着実に発展し、三十年には、今井地区の新田庄八は、千葉郡澱粉改良組合を組織し、品質・技術の向上と、機械の改良に努力した。三十五年には、汲揚げポンプが考案され、澱粉乳の輸送に、大いに役立った。その後、今井地区の大工棟梁、森清蔵が、汲揚ポンプと組合せて、初めて澱粉分離機を作り、試用した。これが契機となり、澱粉分離機の工夫改良に、没頭する者があらわれた。更に、原料芋の洗浄機も考案され実用化された。以上のように、明治三十年代には、人力ながら、澱粉業は機械化へと、大きく第一歩を踏み出したのである。澱粉製造は、千葉郡の独占事業であり、生産総額は、一六万九五八二円に達した。この生産額は、同郡内で生産された醤油の生産額の約二倍、酒類のそれの約三倍、生糸の約一九倍、貝殻灰の約一三倍で、澱粉製造は、まさに、千葉郡最大の製造業であったのである。

新田翁の碑(今井町今井神社境内)

 貝殻灰製造 全県の六〇パーセント余りを産出し、二位東葛の約三倍であった。
 佃煮製造 五田保・寒川地区で盛んに製造され、醤油のほかに、調味料が使用されるようになり、製造元によって、独特の味付けがされるようになった。そして千葉名物となり、東京方面にも出荷された。
 明治六年ころ、千葉町の鈴木政吉が、初めて製造したといわれる粟漬(あわづけ)は、明治三十年代から、小はだ・背黒いわしなどの小物の漁獲物を原料として、盛んに製造されるようになった。
 以上三製造業のほかでは、菜種・ごま油などの植物油生産が、県下の二~三位で、蘇我町には、明治三十四年創業、資本金六千円の合資会社今井製油があった。
 むしろ類・かわら・経木真田・雨がさなどは、二千円~千円の生産額をあげ、比較的重要な製造部門であった。浅草紙は年産四百円余りではあったが、県下の六パーセントの生産額を占めた。
 明治三十六年(一九〇三)、平常一〇人以上使用していた工場は、県下に七五工場であった(五―三一表参照)。
5―31表 平常10人以上使用工場(明治36年12月現在)
内容
地域 
活版印刷醤油製茶製塩煙草製糸織物藁製品醤油樽竹細工
千葉11
夷隅415
君津44
長生33
山武55
市原33
東葛3194228
印旛1315
香取6511114
海上617
193014125111175

(『千葉県統計書』)


 その内容は、醤油工場が三〇で、全体の四〇パーセント、製糸工場が二五で三三パーセント、酒類工場は九で一二パーセントであり、この三業種で、工場全体の八五パーセントに達した。
 醤油・酒類の工場は、東葛を第一に、香取・海上の三郡に集中的に、分布した。製糸工場は、千葉・海上の二郡に欠けるだけで、山武の五工場を最多として、ほぼ分散的に立地した。一〇郡中、最も多く工場が分布したのは、東葛飾郡の二八、全体の三七パーセントで、主要工場の集中立地地域であった。二位は香取郡で、一四工場であるが、内容的には六種類の製造工場がみられる点に、特色があった。
 千葉郡は、わずか一工場で、県下最低であった。ただ内容的には、活版印刷工場であり、これは、県下唯一で、六機関を備え、動力化が進んだ工場であった点で、特異な存在ではあった。ちなみに、県下三〇工場の醤油の場合、全体でわずか三機関、二五工場の製糸は二二機関であった。千葉郡の活版印刷工場一は、長洲地区にあった、積成舎で、従業員は、男子のみ二一人である。なお、盛時三〇人の女工を擁した、富士見橋畔の製糸工場は衰退して、この表にはみられない。
 いずれにしても、このころになっても、千葉郡の工業上の地位は、低かったのである。