当時のわが県の製造業の状態を、明治四十一年十月県内務部刊の『千葉県産業要覧』によってみれば、次のようであった。なお、ここで解説している製造業は、醤油・酒類・澱粉・莚(むしろ)の四種で、製糸についての解説はない。
常時一〇人以上使用の工場は、三十六年の七五から、一一五工場に増加したが、その工場の内容は、
「一一五工場中原動機を備フル大製造家は醤油・酒類・及蚕糸等ソノ半数ニ充タス他、規模甚タ小ニシテ多クハ、農漁業者ノ副業トシテ営マレ家内工業ニ属スルモノナリ」という状態であった。
原動機の内容は、原動汽機四四台石油発動機二台、日本形水車二台の合計四八台であった。原動機使用の内訳は、酒類が汽機四工場・石油発動機二工場、醤油は、汽機九工場、味醂(みりん)汽機二工場、罐詰(かんづめ)汽機一工場、製糸汽機一八工場・日本形水車二工場、製油汽機五工場である。
なお、明治四十年(一九〇七)の農業生産額は、四、二八九万円、工業生産額(生糸を含む。)は、一、六二八万円で、農業生産額の三八パーセントであった。主な工産品の生産額をみると、醤油七二八万円で工業生産額の四五パーセント。清酒二二〇万円で一三パーセント。生糸一一九万円で七パーセント。以下、木綿織物三五万円、製油三四万円、澱粉二一万円、貝灰三万六千円、魚油一万二千円であった。
同書は、澱粉業について、「甘藷(かんしよ)澱粉は、天保五年の頃蘇我町大塚十右衛門なるもの創めて之を製造したるを以て濫觴と為す……。
産地――甘藷澱粉は、千葉郡蘇我町及千葉町を首位として外に検見川、生実浜野の二町一ケ村及海上郡……馬鈴薯(ばれいしよ)澱粉は、千葉海上印旛の各町村を主とし……。
本品製造は凡(すべ)て家内工業にして製造戸数甘藷澱粉二五〇戸職工六八一人……。
澱粉は其産額の殆ど全部を県外に輸出する。仕向先第一東京として大阪京都群馬埼玉静岡の各地及び九州地方……」と記している。
明治時代の製造業の総括を四十二年県統計によれば第32表のようになる。
有動力 | 内訳 | 無動力 | 内訳 | 計 | % | |||
繊維・織物 | 31 | 26 | 104 | 37 | 135 | 24 | ||
30 | ||||||||
食品 | 54 | 23 | 246 | 77 | 300 | 55 | ||
15 | 57 | |||||||
8 | 54 | |||||||
30 | ||||||||
化学・製油 | 12 | 7 | 22 | 13 | 34 | 6 | ||
3 | ||||||||
製材・建具 | 10 | 13 | 23 | 4 | ||||
印刷・製本 | 2 | 8 | 10 | 2 | ||||
その他 | 2 | 46 | 13 | 48 | 9 | |||
12 | ||||||||
8 | ||||||||
9 | ||||||||
総計 | 111 | 20% | 439 | 80% | 550 | 100 |
(『千葉県統計書』)
五人以上の職工を使用する工場は五五〇であり、その内容は、食品・繊維織物関係で全工場の約八〇パーセントを占めた。表中「その他」で最も多いのは、金属製品製造ではあるが、その数わずか一三工場であった。動力を備えた工場は、一一一で、全工場の二〇パーセントにすぎず、有動力工場が比較的多かったのは、製糸・製油・製紙のみであった。
当時の現千葉市域では、五―三三表で示すように工場数六八で、全県の一二パーセント余りであった。
無動力 | 有動力 | 計 | 従業員数 人 | |
蚕糸 | 1 | 1 | 45 | |
足袋 | 2 | 2 | 11 | |
酒類 | 4 | 4 | 27 | |
醤油 | 5 | 5 | 38 | |
製粉 | 1 | 1 | 8 | |
菓子 | 2 | 2 | 17 | |
澱粉 | 38 | 5 | 43 | 228 |
製油 | 2 | 2 | 27 | |
製紙 | 2 | 2 | 31 | |
印刷 | 3 | 1 | 4 | 72 |
経木真田 | 1 | 1 | 20 | |
電燈 | 1 | 1 | 13 | |
総計 | 56 | 12 | 68 | 537 |
(『千葉県統計書』)
当市域が、他に比し、卓越していたのは、澱粉の六三工場中四三、印刷の一〇工場中四、製紙四工場中二、経木真田一、電燈一の五部門であった。
当市域内に限ってみると、澱粉の四三工場は、工場数の六六パーセントであり、二位の醤油五工場を断然引き離し、当市域の工業は、まさに澱粉製造であった。印刷・製紙・電燈の工場数は、少なかったが、全県的にみても重要であった。有動力工場は一二工場で一八パーセント、これは県平均の二〇パーセントより劣っていた。製糸・製油・製紙・製粉は、工場数は少なかったが、全工場が動力を備えていた。
澱粉は、四三工場中五工場しか動力を備えていなかったが、石油発動機使用が、四工場もあった。当市域で石油発動機を使用していたのは、澱粉以外では千葉活版印刷の一工場だけであった。
澱粉製造の動力化は、明治四十一年、今井地区の曽根某が、東京の池貝発動機製作所から、澱粉分離機の動力源として、石油発動機の利用を勧められ、これを使用して、甘しょのすり込みを行ったのが、初めとされている。三十九年に、千葉電燈株式会社が資本金五万円で創設され、火力発電を開始したが、四十四年には今井、五田保方面に送電線が架設され、今井地区の大森、五田保地区の草薙の両工場で、この電力を利用し、電動機で甘しょのすり込みを行った。
次に、六八工場の地域別分布は五―三四表のようであった。
地域 | 工場数 | 内訳 | 有動力 |
総計 | 68 | 澱粉43,醤油5,酒類4,印刷4,製紙2 | 12 |
(『千葉県統計書』)
蘇我町地域三八工場で最も多く、市域工場の五五パーセントが分布した。大部分澱粉工場であったが、今井製油合資会社や、三十七年創業の今井、四十三年創業の小泉の二製紙工場は、全県的にみても、特記すべきものであった。千葉町地域は一六工場であるが、印刷・菓子・製粉など九種類の製造工場がみられるのが特色である。そのほかの地域の工場内容は、澱粉一色といっても過言ではない。また、金属・機械製造関係の工場が全くみられなかったのも、当市域の特色の一つであった。従業員三〇人以上の工場は、院内地区に四十二年創業の島野製糸四五人と、千葉活版印刷の三四人であった。生産金額からみて、全県的に重要であった工産物は、澱粉・貝灰・紙・植物油・洋服であり、傘骨・経木真田・佃煮などであった。
以上が、現千葉市域における明治時代の製造業であるが、同四十四年(一九一一)五月発行の『千葉誌』には、当時の千葉町について「生業は、商業が第一位に居るべきも、然かも今日未だ大賈鉅商を以て許すべきほどのものはあらず、之に次ぐは農業なり、工業に至りては、殆んど数ふるに足るべきものを見ず、袖ケ浦の海岸は、一円に漁業者なり……
要するに、千葉は実業の盛大なる大地にあらずして、学校と軍隊と官衙(かんが)の地なりと云うが、今日適当の批評なるべきなり。」と記されている。