4 明治後期の建設業

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 和田茂右衛門の調査「千葉市中心部職業別分布図」や、『千葉繁昌記』(明治二十八年一月発行藤井版)等で、千葉町における明治三十~四十年代の建設業関係従事者を町内別に整理してみると、鍛治屋・大工・屋根葺・木挽・鳶・木材店・建具・金物屋などは次のとおりであった。
  要町―九軒
  院内―九軒
  北道場―八軒
  南道場―三軒
  横町―二軒
  本町一丁目―二軒
  本町二丁目―五軒
  本町三丁目―二軒
  通町―一〇軒
  吾妻町一丁目―四軒
  吾妻町二丁目―三軒
  吾妻町三丁目―七軒
  市場―八軒
  本千葉―三軒
 当時の建設業関係従事者の賃金(日当)は五―三五表、建築材料の価格は五―三六表を、そして、千葉町管内駅別建設資材到着状況は五―三七表、宅地売買価格は五―三八表を合わせて参考とされたい。
5―35表 千葉町諸傭賃銭一覧表(建築に関するもの)
大工職

左官職

石工

木挽職

屋根職

瓦葺職

レンガ積職

明治36年(1903)60607060606570
明治37年(1904)60607560606570
明治38年(1905)60607560606570
明治39年(1906)60607560606570
明治40年(1907)65657565606575
明治41年(1908)80817580808085
明治42年(1909)75759070707090

(『千葉県統計書』明治42年版)


5―36表 千葉町建築材料価格一覧表
松角材
(2間物1本)
杉六分板
(1坪)
松丸太
(1本)
杉丸太
(1本)
屋根板
(1坪)
栗枕木
(1挺)
洋釘
(1貫)
明治38年(1905)4円17銭1円16銭25銭35銭1 円 5銭40銭48銭
明治39年(1906)4 26 1 46 28 38 1   3 45 49 
明治40年(1907)4 27 1 47 28 38 1   4 45 49 
明治41年(1908)5 60 1 37 45 43 1円60銭1円  50 
明治42年(1909)6 50 1 50 32 40 85 60 80 

(『千葉県統計書』明治42年版)


5―37表 千葉町管内駅別(国有鉄道貨物)建設資材到着状況(明治41年度)  (単位ton)
木材木皮石材レンガ石石灰鉄及鉄物
幕張5776124
稲毛231
千葉1,96371,3532,154201539
本千葉1,1151265797
蘇我152611049
野田(誉田)132122
土気507

(『千葉県統計書』明治42年版)


5―38表 千葉町管内宅地売買価格一覧表(明治43年1月1日現在)
1. 郡村宅地(1反歩当たり価格)
上等蘇我町曽我野496円30銭
中等検見川町検見川66円82銭
下等犢橋村長沼43円32銭

2. 市街宅地(1坪当たり価格)
上等千葉町千葉15円
中等千葉町寒川12円
下等千葉町登戸8円

(『千葉県統計書』明治42年版)


5―39表 賃金累年比較
木挽職家根職瓦葺職煉瓦積職煉瓦製造職船大工職畳刺職建具職
明治33年 
52 

51 

59 

63 

45 

56 

47 

51 
明治38年 59 57 65 71 55 64 51 55 
明治39年 64 63 73 82 53 70 56 61 
明治40年 73 72 87 96 69 81 68 71 
明治41年 78 79 97 1円 6銭74 83 74 78 
大正元年 85 90 1円 3銭1  6 74 91 80 81 
大正2年 85 89 1  5 1  9 76 93 80 83 
大正3年 84 87 1  4 1  5 75 91 78 81 
大正4年 83 86 1  1 1  5 74 96 79 77 
大正5年 84 87 1  2 1  7 75 96 79 78 
大正6年 99 97 1  13 1  22 84 1円19銭88 88 

(『毎日年鑑』大正9年版)


 明治三十六年(一九〇三)段階での市街地化は、吾妻町、本町、市場町のほかに、房総鉄道が明治二十九年に蘇我―千葉間に開通したことにより、寒川駅(後本千葉駅)が開設され、そのことによって、正面横町通り(現在の中央銀座通り)が駅前通りとして発達した。

本千葉駅

 更に蓮池通り、新通町通り(現在の銀座通りで、これは第二次大戦後の呼称である。)が開設されて、明治四十四年には、旧国鉄千葉駅と吾妻町を短絡する栄町通りの出現もみている。
 町屋は、明治四十一年(一九〇八)二月十二日の寒川の大火以前は間口が狭く、奥行の深い家が多く、かなり連担して密集していて、また西方からの冬の季節風に備えて植込みをした家もかなりみられた。長洲には明治初期から十六軒長屋が存在していたが、戦後は、アパートに転換している。また登戸河岸のいん賑を物語る新町の遊廓も、明治十二年(一八七九)、当時新地として中心街から隔絶した場所に生れた。
 千葉町も明治末期から、建造物の新陳代謝が激しくなり、特に本町通りに居住していた人たちは、高い地価を出しても、そこに商店を開設しようという商人が多かったので、出職人、日雇(鳶)などは裏町に住居を移動して、本町通りにビジネス商店街が形成された。
 当時の住居は、大正十五年(一九二六)発行の『千葉郡誌』によれば、「……屋根は茅又は、麦藁にて葺きたるが多し。用材は主に松杉にして、柱椽側に欅を使用したるもあり。中流階級以上に於ては多く玄関を備へ、室も奥座敷中の間居間納戸等に分れたれど、中流以下にありては中の間居間の二室位なるが多し。……近来の建築に係る家屋は一般に小さく、而かも堅牢よりは寧ろ採光通風等の衛生に注意し、屋根も瓦トタン等の不燃物を以て葺くに至れり。」と記載されている。当時の千葉町には平屋が多く、質素で、どっしりとした町屋はみられなかった。ガラス戸の普及は、大正中期以降で、当時は腰高の半障子で採光をしていた。半障子は、幅三尺、高さ五尺七寸で、下部は板が張られ、上の半分が障子紙張りであった。