寒川港の改修と出洲の埋立

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 三大土木知事の二番手として、有吉忠一(任期明治四十一年三月八日~明治四十三年六月十三日)が大土木工事を行った。
 有吉知事は、欧米から帰朝後間もない三七歳という青年であったが、千葉町発展の百年の計と、日露戦争後の金融引締めによる不況打開(失業者の救済対策も考慮して)のため、明治四十三年(一九一〇)より三カ年継続事業として寒川港の改修に着手した。この前年に県会で、産業と交通の繁栄のため、内湾諸港の間で浚渫問題が関心を集め、浚渫船(小型の旧式バケット式のもの)一隻を購入していた。
 工費は、二五万円で、都川の河口及び前面水域を、水深二メートルに浚渫し、大型船の出入港を容易にし、一方三万四〇五六坪の船溜を設けた。浚渫した航路は、埋没を防ぐため捨石をした。更に浚渫した海泥砂で、埋立てをしたのであるが、浚渫船のバケットで浚い揚げたものを、ひとまず「ハシケ」に移し、それを運んで埋立てをするというものであった。それでもかなりの広さを持つ馬蹄型の埋立地が造成された。
 この埋立地に築かれた堤防は、長さ約千メートル、幅二・三メートルで、海岸の散歩道にもなった。この堤防も海面に接する外部を貧弱な木材と竹材で構築したため、若干の波浪でも崩壊し、海水がオーバーフローしてきた状態であった。
 更に民間でも、寒川大橋詰めに居住した木志屋の楠原某が資金を集め、私財を投じて、都川右岸の向寒川(現神明町)の出洲海岸三万三千坪の埋立地の造成を計った。そこには、住宅地や某燃料工場が進出してきた。
 これらの工事には、多いときは、一日千人以上の人夫が就労し、男は四五銭、女は三五銭という日銭を得た。当時、「朝の六時から、弁当箱さげて、お前どこ行くトロッコおし、スッパカパア、チンカイナ」という文句の、俗謡が流行したほどである。
 トロ車の手押は、「ハシケ」で桟橋まで運んだ泥土を、埋立地に運搬する際、人海戦術的につかわれた。しかし、この工事は、有吉の意図に反して、資金難、地元の反対、疑獄事件等が発生し、中途で挫折した。特に、大正六年(一九一七)九月三十日の大暴風雨と高潮で、航路は埋まり、堤防も崩壊してしまった。
 その後、東京毎夕新聞社長で政友会の木村政次郎の、浦安~五井沿岸埋立案等が発表されたが、実現には至らなかった。とまれ、有吉知事の企図は、信淵、デ・ライキ以来の一エポックとして評価できるであろう。