5―5図 下志津原陸軍演習場拡張経過
(『四街道地誌』)
5―6図 軍用地の犠牲となった部落とその移転先及び終戦直後の行政区画と面積(『四街道地誌』)
下志津原は、幕末に佐倉藩が砲術教練地として、砲術家の藩士大築尚志に命じて開設し、明治八年に兵学校寮の大村益次郎の建言で、陸軍演習場になった。なお、教導派遣将校ルボン(フランス砲兵士官)を記念しての「ルボン山」(標的築山)は、土地の人に親しまれている。
明治四十年(一九〇七)十月、東京中野の交通兵旅団(鉄道・電信・気球隊)の鉄道部門が発展拡充して、千葉郡都賀村(現椿森・作草部)に移転し、翌四十一年六月施設も完備して、鉄道第一連隊が発足した。『さんたり鉄道兵』の記録によると、鉄道大隊は、明治二十九年(一八九六)東京中野に設置されたが、演習用線が一二キロメートルで手狭になったためで、広大な下総台地に立地する千葉では四五キロメートルを一運転区として設置できた。鉄道兵は工兵大佐を長とし、二五パーセントが工兵出身で、鉄道の保守、新設、修理、破壊(敵地)を任務とした。
太平洋戦争中、映画「戦場にかける橋」で著名な秦緬鉄道の建設の主体は、津田沼(習志野市)の鉄道第二連隊であったが、鉄道第一連隊出身者もかなり関係していたようである。
鉄道連隊の敷地は、一面の畑地(麦・甘藷)で院内、作草部の農民が半分ずつ強制的に、坪単価四〇~五〇銭程度で買収された。また篤志家が一万五千坪を寄付している。
5―7図 鉄道第1連隊の演習線図
鉄道連隊の作業風景
鉄道連隊建設の整地等の基礎工事は、所属の工兵等のほかに、道場、院内などの農民が農閑期にかなり従事したようである。千葉町には、当時定職に就かない、臨時の日雇専門の人夫も相当多くいたので、労働力にはこと欠かなかったわけである。鳶の棟梁が配下の棒頭をつかって、今日のように職業安定法など施行されていないので口入稼業的に人手を集め、特に貧富の差激しく、日銭を必要とする者が非常に多かったので常に需要に即応できた。更に院内は完全な農村地帯で、自作農が多く、日々の労働にも時間的な拘束を受けなかったので応時、土方や鳶的な仕事に従事した。当時の整地用の工具は、「大だこ」、「小だこ」、「おかぐらさん」、「きりん」等で女性もヨイトマケの綱を引っぱった。これら人夫の日当は男子が六〇銭、女子が三五銭位であり、棒頭は一割程度のピンハネ(頭をはねる)をした。
建物の建築は、明治四十年に陸軍建築工事請負資格が、かなり緩和されていたが、地元千葉には有資格者がなく、東京小岩の島村某や、遠藤組などが請負った。明治期に軍施設関係の工事を受注して、現在の大林組・松村組・藤田組・銭高組・安藤組・大成建設(当時大倉土木)などの大手業者は、その発展の基盤を形成したわけであるが、千葉の場合、業界の組織化の動きもなく、真向から太刀打ちできる業者(資力、技術共)は皆無で、以後の軍関係工事はすべて、大手業者にヘゲモニーを握られたのである。更に軍関係の一連の工事には、秋田、福島、山形、新潟等から「渡り職人」として大工、左官などがきて、工事後も道場、院内に居住するものも多く、彼らは地元のものに比較して、非常に勤勉で進取の気質が横溢していたという。
鉄道連隊の演習用作業場は、現在の千葉公園の綿打の池付近から競輪場一帯で、架橋演習中の橋脚や、トンネル工事用のコンクリートピアが現存している。鉄道第二連隊と連担する、演習用軌道の敷設は、鉄道連隊設置後二年位経過して、最初、狭軌で、更に一〇年位後に一〇六・七センチの標準軌道、そして満州事変後には大陸作戦から広軌も併置されるという順序であった。
現在の穴川橋は、最初道路と平面交差(踏切があった)であったのを、逐次木橋からコンクリート橋に、すべて鉄道兵の手によって構築されていったのである。
その後昭和十二年(一九三七)に広軌用機関車(一一〇トン)の車庫は、陸軍技手服部三次が設計して、藤田組が四万円で請負った。この鉄道連隊に関連する、鉄道第一連隊材料廠も、明治四十二年に現在の東鉄材修場から経済高校にかけての轟町から弁天町地先に設置された。
この敷地は、登戸の地主高橋善七ら所有の、地目は山林(松林)で、坪単価五〇銭程度で買収した。
ここには旧国鉄千葉駅の軍専用ホームから、引込線が敷設され、レール、枕木、砕石、砂利等が常置されていた。