道路交通と海運の時代はすぎ去った。これらに依存していた港や内陸の町は衰えた。港町の寒川・登戸・曽我野・浜野は昔日の面影を失った。検見川だけは駅の新設を反対して生き残り、大正末になっても帆船が物資輸送に勢力を維持していた。内陸では野田(現鎌取町)は、道路交通が衰えると町並はさびれた。千葉町の道場町もまた「烏がなけば馬千匹」という繁昌は昔物語りとなった。新しい鉄道時代がはじまった。鉄道開通に伴い、駅が新設されて、物資の輸送と乗降客の出入の中心となった。駅を中心として道路網が形成され、海運に依存した内陸への輸送ルートが再編成された。物資の流通圏は駅を中心としていわゆる駅勢圏という新しい流通圏ができあがった。この駅勢圏の中心として駅前市街という新しい町並が成長し始めた。明治末までの新駅の設置と新しい町並の発展と駅勢圏は次のとおりである。
幕張駅 明治二十七年十二月九日開業。千葉街道に沿うむかしからの宿場町は衰えたが、駅と千葉街道間の駅前市街ができた。駅勢圏は幕張町・検見川町・犢橋村、大和田村(八千代市)で半径約四キロの圏内。
稲毛駅 明治三十二年九月十三日開業。大正十五年発行・千葉運輸事務所の『管内駅勢要覧』によれば、「付近一帯は畑地にして 最近に至り海水浴場、避暑地として世に知られ、都会人士の来往頻繁となり 別荘住宅の新築ようやく増加の傾向あり しかれども冬季はげしき浦風の砂塵を加えて襲来し、かつ日常物資の購求に不便なるため 夏季の殷賑にひきかえ冬季は寂寥々たるは惜し」と述べている。駅前市街の形成がおくれたのは、駅勢圏は黒砂・小中台・園生・宮野木などの半径約二キロのせまい畑作地にかぎられたからであった。
千葉駅 明治二十七年七月二十日 駅より千葉神社までの駅前市街(栄町商店街)が成長を始めた。この駅勢圏は千葉町、都村、都賀村、千城村、犢橋村、更科村、白井村。
本千葉駅 明治二十九年二月二十五日開業。千葉駅は総武鉄道株式会社の駅であり、本千葉駅は房総鉄道株式会社の駅であった。両会社が対立、競争して、千葉町に二つの駅が開業された。本千葉駅の駅前市街(中央銀座通り)が芽生えた。この駅勢圏は、千葉駅の駅勢圏と同じである。乗降客は千葉駅が多かったが、貨物の発着は本千葉駅が多かった。
蘇我駅 明治二十九年一月二十日開業。駅前市街は房州街道にあった曽我野・今井の旧市街につづき、丁字型の市街地をつくった。この駅勢圏は港町時代にくらべてはるかに小さい生浜村、千城村などであり、半径四キロに縮小した。
誉田駅 明治二十九年一月二十日開業。駅名の始めは野田駅といったが、大正三年に誉田駅に改名した。駅前市街は十文字区といって明治初年の開墾移住地であったが、駅の新設によって商店もできて市街化が芽生えた。その反対に宿場として栄えた野田区は急速に衰えた。この駅勢圏は誉田村、市東村(市原市)、土気町の越智区などの半径二キロ。
土気駅 明治二十九年十一月一日開業。江戸時代には九十九里平野の海産物やその他の産物の輸送路の宿場であった。鉄道が開通してから宿場町は衰えた。その駅勢圏は土気町だけに縮小した。
浜野駅 明治四十五年三月二十八日開業。鉄道の開通前は木更津街道と勝浦街道との合流点で人馬の継立地と港町として栄えたが、鉄道の開通後に町並は衰えた。その駅勢圏は浜野村、菊間村、湿津村などにかぎり、半径四キロに縮小した。