『千葉市誌』(昭和二十八年)によれば、当時、千葉市の道路は二線の主要街路からできていた。一つは千葉神社を基点として、本上町、本中町、本下町と続いて都川に達するもので、広板二、三枚を架けた当時の大和橋を渡れば市場町、長洲町となり、ここからは房総街道がはじまった。他は吾妻町通りで、当時、本町通りに平行して、裏上町、裏中町、裏下町とつづいて都川で終わっていた。この二線の主要道路から四方に街路が伸びていた。また、明治五年頃の地図をみると、この主要道路からでる佐倉街道、その北の院内通りにも街路に沿って商工運輸業者が密集し、千葉町の中心地域をつくっていた。これ以外の小街路は二線の主要街路から何本もでて、道路はかなり多いが不規則であった。また、主要街路から離れると家屋もまばらになり、農地や荒地が目だっていた。
5―9図 千葉町と周辺(第一軍管地方迅測図 明治15年)
千葉町からでる主な道路は、道幅五間の国道が一本と、道幅四間の県道が四本あった。国道は東京道(千葉街道)で、市川まで六里、更に東京へと続いていた。東京道は裏上町から北上して、現在の作草部、穴川、園生近くを通る内陸道路となり、稲毛村で海岸にでるコースをとっていた。稲毛村からは海岸沿いに東京方面へと続いていた。東京道は国道といっても千葉町の市街をでると人家はほとんどなくなり、内陸を約一里半歩いて稲毛村の集落にはいるというものだった。海岸通りにでると、検見川・馬加・鷺沼などの街村型の集落が一〇町か二〇町ごとにあった。
県道は本上町からでる佐倉道があり、佐倉町までの四里二千六百間、市場町から東金町を結ぶ六里二千二百間の東金道、長洲町から館山町に至る二六里三千五百間の館山道(房総街道)、そして、館山道の浜野村から分岐する勝浦道があった。これら幹線道路からは支線道路がいくつか分れている。例えば、東金道からは土気方面へ、佐倉道からは臼井方面へ分岐するなど、これらは地方主要道路となっていた。しかし、これらの道路沿いは集落もあまりなく、淋しい街道だった。
これらの道路は、すでに江戸時代にできあがっていたが、道路状態も江戸時代そのままの悪路が多かった。例えば、国道の東京道でも、稲毛地先には二つの峻坂があって、車馬の通行はおろか、風雪等の場合には一人立ちの歩行も難しかった。また、明和二年(一七六五)の中村国香『金ケさく紀行』によれば、「四月三日、郷を離れ、その夜同州千葉郡曽我野の駅に宿す。四日、雨足如束傾注、道路波を起し、泥土脛を没す。午後、船橋駅着」とあり、大雨のあとは歩行すらすこぶる困難だった。これは「石なしの国」のため、砂利で道路を固めることができなかったからである。このような状態で明治期にひきつがれ、この悪路は千葉町のみでなく、全県的な傾向であった。そこで、道路の改修工事は県政の重要事項になっていた。
県庁から登戸村・黒砂村を通り稲毛村にいたる海岸道路は囚人労働によってでき、国道は県庁から船橋まで改修された。更に、明治二十五年の千葉町の大火後、次第に道路は改修されていった。しかし、悪路ではあったが道路網は千葉町を中心に四方に伸びており、これらはいずれも現在の幹線道路のもとになっている。当時においても千葉町は道路交通の集中するところで、人と物資の集散がはげしかった。
明治中期の東京街道(現国道14号線登戸あたり)
明治六年、千葉町が県庁所在地になると、海陸の交通は会社組織によって遠距離交通も便利になった。明治初期には千葉―東京間に馬車便と人力車便、千葉―東金間に馬車便、千葉―木更津間に人力車便がそれぞれ開通した。
明治中期の人力車
『千葉繁昌記』(明治二十四年、君塚辰之助)によれば、当時の陸上交通の状況が次のように記されている。
通運会社出張店
同店は本町三丁目大和橋の辺に在りて 物品輸送の業務に励めり
総房馬車会社
同会社は本社を本町三丁目大和橋の傍に設け 支社を東京両国広小路に置き 千葉東京間往復の便を計り 毎日午前六時より午後三時まで毎時本支社より一輛の馬車を発す 其車代は一名金三五銭也
貫進社
同社は輓近の設置に係り 本社は東京向両国に在りて 支社を千葉本町三丁目に置き 千葉東京間腕車乗客の便を計れり 賃銭は一名金四拾八銭 其社の車夫は太神楽の兼業にや〓の印を附したる饅頭笠を頂けり 虎に鞭て千里の藪を超るの速力なきも、牛に騎て善光寺に詣るの遅々たるに非さるべし
大和橋
同橋は本町三丁目と市場町の間に於て 都川に架けたるもの是也 其長八間許 幅四間 左右鉄製の欄干を樹て 尺余大の石材を以て其柱とし 一方に橋名を彫り 一方に明治廿一年千葉県設計の文字を刻む 蓋し県下第一の美橋にして 全市の光彩を増したること甚た大也矣
千葉町における当時の主要な橋は、『明治十三年統計書』(千葉県)によれば、都川に架けられた大和橋、寒川の大橋、花見川に架けられた検見川の花見川橋などであった。右の大和橋のように改築する前は、いずれも木造であった。本町三丁目の大和橋近くには、多くの運送業者が集まり、陸上交通の拠点として舟運との連絡地ともなっていた。また、道場町や市場町も商業で繁昌し、特に、佐倉街道によって印旛、千葉郡方面から五穀、薪炭などを馬で集め、それらの取引地になっていた道場町は宿場町として活気を呈していた。