当時の海上交通の様子を、前記『千葉繁昌記』は次のように記している。
汽船
東京湾汽船の汽船福沢丸は 毎日午前八時東京霊岸島新港町を発し同十一時頃千葉町寒川沖に着し 乗客荷物を卸し 浜野八幡に航し午後一時半頃再び寒川沖に来り乗客荷物を搭載して東京に帰航す 乗航賃は並二十五銭にして上等は三十五銭也 而して其扱所は寒川大橋の傍に在り 馬車は腹中を転覆し 腕車は面倒なりとする所の者多く此汽船内雑居の客となり 煙を残して都の空に赴く
海漕店
海漕店を営む者数戸あり 登戸に於て金七船 菓子屋船 寒川に於ける次郎丸船 若宮船等是也 金七船 菓子屋船 若宮船等は主として東京に来往し 次郎丸船は横浜に航す 是等の和船に乗て京浜に往復する者亦寡とせす 天涯雲なく海上波静なるの日に於ては 一瓶の酒に睡眠を購ひ未た醒めさるに速く彼岸に達するを得る 而して其賃を問へは白銅三個を出して釣を得 豈に廉ならずや
明治二十年代までの千葉町の港は検見川・登戸・寒川・蘇我などであった。登戸・検見川は東京道に接し、寒川は房州街道、蘇我は勝浦道に通じていた。また、佐倉・東金街道で運ばれる物資も寒川や登戸などの港と結びついていた。
前記『千葉市誌』や『千葉県史(明治編)』(昭和三十七年、千葉県)などによって当時の港の繁栄ぶりをまとめてみると次のようになる。
登戸には海運業、問屋業が町並をつくり、江戸積問屋は上総屋、相模屋、伊勢屋、越後屋があり、荷宿に亀屋、木村屋、米金があり、船持四三軒、五大力船八〇隻もあった。なかでも金七船、善七船や菓子屋船は名高かった。荷の多くは東金・大網・茂原方面や印旛・千葉郡で、九十九里の魚などは、夜の一二時ころ鈴の音をならして登戸の町に乗りつけた。朝の市場に間に合わすために、登戸船は夜走りする。この船は行徳まで漕ぎつけ、ここから川舟で本所深川まで入った。当時、船の大きさをはかるのに何時船(なんときぶね)といった。これは、江戸まで何時間で漕げるかということから生れたものである。登戸には船乗渡世は一一九戸といい、総戸数が三一七戸の三七パーセントを占めていた。登戸は港町として「のぶと宮野河岸遠浅なれば、しやみや太鼓で船つなぐ」「ノブト新地はイカリがつなぐ、今朝も出船よ三艘でる」など、俚謡にうたわれるほどの繁昌ぶりだった。
検見川は海漕業一〇軒、五大力船三〇隻、船乗渡世九二軒があり、総戸数四二二戸の二三パーセントが海漕業に従事していた。
蘇我は勝浦道と房総街道の合するところで、穀物や薪炭類が集まり船で江戸に送った。海運業八戸、船乗渡世三四軒で、総戸数三四五戸の一二パーセントであった。
最も港として繁栄していたのは寒川である。江戸時代から佐倉堀田藩の江戸送りの米の積出し港であり、米倉が立ちならんでいた。はしけ舟によって都川の大和橋までのぼり、江戸送りの米や炭を河岸にある問屋から集めて、寒川港の五大力船に積込んだ。海漕業は二一戸、船乗渡世四五戸、各種の問屋は市場町にならび、ここは仲買商人街として活気を呈した。
前記『千葉繁昌記』の寒川の次郎丸(治郎丸)船について、現在の治浪丸船舶食糧株式会社に残る横浜上野運輸小高氏からの文書を要約してみると、次のようになる。
「この船は千葉―横浜間を連絡していた定期船であった。船型は五大力船で、数百年間にわたって東京湾を中心に活躍した輸送船である。都川河口の寒川は、すでに延享三年(一七四六)に寒川村として寒川・新田・新宿の三部落からなり、戸数三三七軒、名主船一隻、五大力船四〇隻、押送船二〇隻があったといわれている。幕末から明治のはじめころは、都川河口よりも登戸寄りの寒川新田あたりに多くの船が発着していた。千葉―横浜間は陸路で約八〇キロメートル、徒歩で二日行程だったが、水路は二五マイル余で、五大力船は快速で順風なら一〇ノットくらいのスピードが出たため、特別の悪条件でもない限り数時間で到着できた。千葉―横浜間の料金は、明治二十四年ごろ一人一三銭前後だった。これを当時の交通機関の料金と比較すると、明治二年五月に横浜吉田橋――東京日本橋の馬車が二頭立六人乗りで四時間かかって七五銭、千葉――両国間の馬車賃を加えれば、千葉――横浜間の陸路料金は八〇銭近くになる。明治十二年の郵便汽船三菱会社の料金表では、常雇人夫や倉庫番が一日一人二五銭だった。これらからみて、次郎丸船の一三銭は時間も早く、性能もよく安全で料金も格安だったことがわかる。したがって、これが航行に盛んに利用されたのは当然だったといえよう。」
「次郎丸船は料金が安いのみでなく優秀な船員を揃え、確実な航海をした。『百年随想』に会長は『五大力船は帆船であり、大きな三号帆を風の方向によって操作し、千葉から横浜に風雨にもかかわらず一日でも横浜にこないことはなかった。吉田橋から弁天橋には処々に渦を巻いていた。五大力船が澪(みお)を行くとき、直径三寸くらい、長さ三間余の棹を体格のよい船頭衆が流れに棹さして行った』と記している。次郎丸船は旅客の期待に応えて、定期船としての役割を十分に果たした。次郎丸船の帆のマークは二の字が横にひかれ『沖にちらちら横二の船は あれはサンガ(寒川)の次郎丸よ』と民謡にうたわれ、いまも伝えられている。寒川一帯は遠浅なため、次郎丸船は沖に碇泊し、陸との連絡は伝馬船によっていた。」
五大力船(模型)<県立上総博物館蔵>
また、明治初期の五田保河岸の『船数取調書上帳』『輸出入物品地名艘舟書上控』『出帆免状記』などの資料から海運の状況をみると、次郎丸船のような五大力船のみでなく、もっと小型の押送船、二挺立茶船、茶船などもかなり多く出入りしていたことがわかる。積出荷物は、木材、戸、粕、干粕、魚油、芋、炭などが主なもので、京浜地方にもっぱら送っていた。当時から房総半島は、東京の食料物資の供給地域として農産物を東京へ送り、東京の台所の役割を果し、主として海上輸送をとうして東京商圏内にくり込まれていたといえる。千葉町はその中継機能としての役割をもち、寒川・登戸などの港は、まさに表玄関であった。
一方、入船をみると、南房地域からの船が圧倒的に多い。荷物はいもが最も目立ち、〆粕、魚油、米、真木、炭、木材などを積んできた。その多くはここから京浜地方に送られる。また、駿州・伊豆・相州などからの船の出入りもみられ、港町としての千葉町は、各地の船乗りや商人が集まり活気に満ちあふれていたと察せられる。