鉄道開通による変化

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 鉄道の開通はさまざまな方面に大きな影響を与えた。特に、他の交通機関に及ぼした影響は大きかった。従来、千葉町まで馬車や荷馬車で運ばれ、登戸や寒川港から舟運によって東京や横浜方面に輸送されていた九十九里浜や銚子方面の鮮魚、米、繭、干鰯等の物資は、すべて鉄道輸送に変わった。中でも県北地域と東京の中間にあって、中継商業地としての機能をもっていた千葉町の各港湾は大打撃を受けた。総武鉄道を基幹鉄道として、房総鉄道、成田鉄道によって運ばれる物資は、千葉駅を経由して東京と直結した。物資の輸送手段のみではなく、江戸積問屋や海漕店などは転業し、船乗渡世は京浜に移動し、千葉町の中継商人は仲買、卸売りから小売商に転向した。それは、各地の地方商人は千葉町中継商人の手をへないで、東京卸売商人と直接取引をはじめたからである。
 いま、鉄道開通前と開通後の物資の移出入額を、前記『千葉鉄道管理局史』によって比較してみれば、次のとおりである。
 明治十九年の登戸・寒川二港からの移出入額
 移出 八八万三千円 米、雑穀、薪炭、魚鳥、製茶、果物、甘藷、醤油、その他
 移入 八一万六千円 酒類、かつお節、水油、その他
 鉄道開通後の明治三十七年の移出入額
 移出 五五万円 米、木炭、大麦、澱粉、製茶、その他
 移入 三二万円 米、塩、肥料、煉瓦、その他
 また、『港湾の影響』(昭和四十一年、千葉市)から、当時、最も繁栄していた寒川港の出入船舶数をみると、明治二十年の出入船舶は、五大力船(五~六人乗四〇トン)三、一二〇隻、汽船二百隻を数えたが、明治四十年には帆船二九〇隻、汽船一三隻になっている。一方、貨物量や船舶数のほか旅客も減少の一途をたどり、明治四十二年の千葉県統計書によれば、定期船は東京湾汽船株式会社の千葉――東京間が一日一往復あるのみで、平均乗客は一日二〇人弱になってしまった。登戸や曽我野、検見川などの港からは、もっと早くから出入船舶の影は消えた。
 鉄道の開通による地域の変化は千葉町にのみみられたわけではない。東海道本線の開通によって、東海道の宿場町が次々にさびれていったのはよく知られるところであるが、千葉県でも宿場町がさびれるとして、鉄道建設や駅の設置に反対したところは少なくない。また、乗合馬車や水運業者の反対もあり、特に、現在の内房線(当時の木更津線、北条線)は、南房総と京浜を結ぶ東京湾の海上交通が発達していたために敷設が遅れた。県北の利根水運も急速に消滅したわけではないが、次第にその機能を失っていった。
 交通革命は千葉町を中心に房総半島各地にその効果を波及した。千葉町は鉄道の開通によって港町としての色彩が失なわれた。しかし、千葉駅を中心として発達した鉄道網は、新たに千葉町と県内各地を短時間のうちに強く結びつけた。そして、名実ともに県内の政治、経済、文化の地方中心都市として発展することになった。