5―11図 千葉県の鉄道網(大正5年) (青木栄一による)
千葉駅を中心に放射状に伸びている鉄道は、大正時代にはいると更に延長され、千葉町と直結する地域は拡大されていった。まず、大正元年に千葉――木更津間の木更津線が開通し、更に北条まで延長されて北条線となって開通したのは大正八年である。これの開通によって、沿線の町村は海水浴場、観光地として脚光を浴びるようになった。また、従来、海上輸送のみであったところへ鉄道貨物として物資の輸送が増加するや、南房総の果実や野菜の生産がのび、千葉町や更に東京へと輸送される量が増した。このため、千葉駅の果たす役割は増大し、貨客の扱いは急上昇した。いま、千葉市街地にある千葉、本千葉両駅の乗車人員と貨物を大正四年と九年で比較すると次のようになる。
5―12図 駅別1日当たり乗車人員の推移(明治37年~大正9年)
乗車人員( )内は一日当たり人数
大正四年
千葉駅 四二万五七三〇人(一、一六六人) 本千葉駅 二一万四九四〇人(五八九人)
大正九年
千葉駅 八二万一六六八人(二、二五一人) 本千葉駅 四一万五九六九人(一、一四〇人)
貨物到着量
大正四年
千葉駅 二万三六五〇トン 本千葉駅 一万六五四九トン
大正九年
千葉駅 四万三九一四トン 本千葉駅 二万四七一四トン
乗車人員において九三パーセント、貨物到着量では七一パーセントの増加である。これらは、もちろん北条線の開通のみの影響ではないが、千葉――北条間に一日上下線各九本(大正九年時刻表、大正八年五月改正)の列車が約五時間弱(急行一本あって四時間強)、料金一円四〇銭で走ったことは、大きな要因になったと思われる。『房総案内』(大正八年、千葉町由良開進堂)には、東京市民を対象にして、交通、観光、産業、旅館、電話などを案内し、とくに、鉄道開通後の外房地方と題した一文を載せている。これには、北条線の開通が安房郡民を熱狂させ、一大公園として大きな望みをいだいていたことがわかる。このように、北条線の開通は、南房地方を東京の観光・保養日帰り圏には遠いとはいえ、一泊二日の範囲にくり入れたことは事実である。
また、大正九年に成田鉄道が国有移管になった。
千葉駅、本千葉駅を出入口とする千葉町の中心街は、それぞれの駅前道路に沿って繁栄した。特に、千葉神社より北の三条からなる道路は、千葉駅が開業してから市街ができ、千葉駅と県庁を結ぶ区間が商店街となった。千葉町の繁栄は、千葉県庁を中心とする官衙群、県立千葉病院や諸学校、そして、軍事施設などが主要因であった。これは駅の乗降客にも反映していた。前出『千葉市誌』によれば、大正二年における千葉駅、本千葉駅の一日平均乗降客数の割合は次のようになっている。
千葉駅一日平均乗降客数 三千二百人内外
内訳 二〇パーセント 兵隊
一五パーセント 学生
一〇パーセント 病院患者
五五パーセント 一般
本千葉駅一日平均乗降客数 二千七百人
内訳 四〇パーセント 県立病院への入院患者や通院患者及び関係者
一〇パーセント 学生
一〇パーセント 役人
四〇パーセント 一般
駅と県庁、県立千葉病院などの諸施設等を結ぶ、本町や吾妻町などの通りはメインストリートとなり、役人、学生をはじめ、多くの人々でにぎわった。
このように大正十年に市制施行されるまでに、千葉町は町勢の躍進と県都としての性格を強めた。交通から見れば、房総半島の鉄道網の中心としての役割を果たし、間もなく完成する房総半島環状線のキイステーションとして、その準備を完成していた。また、道路についても、銀座通りを加えた中心街路と放射状に延びる地方中心都市を結ぶ幾つもの街道に商店街が拡大、形成された。
消費都市の性格が強かったとはいえ、官舎・住宅の建設、学生や軍人の増加などで町は活気を呈していた。総武線と東京――千葉間の電化と直通、乗合自動車や貨物自動車の普及などの必要は、すでにこの時期にあったといえる。全国的な交通網の充実、拡大が早いテンポで進行していた、千葉町の交通の次の飛躍期は昭和初期であった。