徴兵制

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 明治政府は富国強兵策をたて、国民皆兵制をしいた。明治三年(一八七〇)十一月、全国から兵を募る徴兵規則を制定した。
 府藩一万石毎に士・卒・平民を論ぜず 五人出兵し 明年一月より徴募す
 この徴兵規則はまず近畿地方に実施された。近世の武士階級は、明治になってから、旧身分の高下によって、士族と卒族にわけられていた。平民とは、農・工・商階級であった。明治五年十一月二十八日に徴兵令と徴兵詔書を発布した。同月三十日、全国の壮丁をことごとく兵籍に編入して国民皆兵とした。この徴兵令の発布が全国に与えた衝動はきわめて大きかった。徴兵令には徴集猶予条項があったので、さまざまの理由をつけて免除を願いでる者があった。この猶予条項は
 一、兄弟同時に徴集に応ずる者の内一人、及び現役兵の兄或は弟一人
 二、現役中死没、及び公務の為め、負傷し若くは疾病に罹り免役したる者の兄或は弟一人
 三、戸主年齢六〇歳以上の者の嗣 或は承祖の孫
 四、戸主廃疾又は不具等にして一家生計を営むこと能はざる者の嗣子 或は承祖の孫
 五、戸主
 この猶予条項のほかに、特別に何人でも代人料金として二七〇円を納めれば兵役は免除された。これは当時として大金であった。明治十六年に猶予条項は戸主の年齢六〇歳以上の者の嗣子、承祖の孫、戸主の廃疾などの嗣子だけが兵役を免除された。さらに後年に廃疾・不具の者、壮丁の検査規則によって兵役にたえない者、犯罪者などは兵役から除かれた。また、検査合格者に対して、合格者が多い場合はくじびきで兵役を免除され、この者を「くじのがれ」といった。千葉郡の壮丁検査の成績は、大正三年、人口一〇万九六四八人のとき、受験人員が八九三人、甲種合格が三三七人、第一乙種一三六人、第二乙種一三五人、丙・丁・戊種は二八五人であった。甲種合格のみは入営して三カ年間を服役しなければならなかった。海軍は志願兵制であったが陸軍は徴兵制であった。陸軍は常備(服役三年)、後備(第一後備と第二後備のそれぞれ二年)、国民兵(一七歳から四〇歳まで)に三大別された。甲種のみがながい服役期間があり、乙種は短い教育召集という入営期間があり、他は戦争がなければ入営期間はなかった。国民の三大義務といわれた兵役・納税・選挙のうち、兵役の義務には心身の強健な甲種合格者に負担が重かった。
 男子二一歳に壮丁検査が行われて、甲種合格者は入営し、三年間の服役をして除隊することがゆるされた。この間、個人の自由な生活を放棄して軍隊の訓練をうけるから、一家は労働力を失って生活に困ることもあり、本人も生活の過程を中断された。明治初期は徴兵のがれに両親も本人も真剣になった。特に明治五年の徴兵に関する太政官告諭の中に「西人之ヲ称シテ血税トイフ 其ノ生血ヲ以テ国ニ報ズルヲ云フ也」という一文があった。この血税という意味は軍隊に入って生血をしぼりとられ、赤毛布の染料として外国に輸出されることであるとして暴動をおこした地方さえもあった。徴兵のがれのため、神仏に祈願をこめる風習が発生した。このために霊験のある神社として、山武郡旧増穂村の太政大神が各地からひそかに参拝された。しかし明治政府の教育方針が徹底して、忠君愛国の思想が国民にしみこんだ。そのころは徴兵のがれよりも武運長久の神が信仰されるようになった。
 明治三十二年から大正十年までの壮丁検査の結果をみれば、戦時中と戦後では大きな変化がある。壮丁検査をうける人数は総人口の四・五パーセントから五・二パーセントであった。壮丁検査をうける人数のうち、日露戦争前において甲種合格は四〇パーセント強であったが、戦時中の明治三十八年には七二パーセントに増加した。戦後の同三十九年には三八パーセントに低下し、明治四十五年には二九パーセントになっている。第一次大戦中には四五パーセントに増加し、戦後には三〇パーセントに低下した。丙・丁・戊種合格は兵役にたえない者とされたが、戦時中には減少し、戦後には増加している。戦時中は戦闘員として検査基準をゆるめて合格者を多数にした。
5―40表 明治―大正期の壮丁検査(千葉郡全体)
種別
年度     
受験者数甲種合格(乙種合格)丙種合格丁種合格戊種合格
第一乙種合格第二乙種合格
明治32年  760人424人  134人 151人51人――人
33 727 346   157  181 42 1 
34 不明  
35 770 303   222  185 58 2 
36 564 201   172  136 54 1 
37 736 306   204  150 68 8 
38 637 460   74  52 43 8 
39 834 322   265  173 65 9 
40 812 332 160 97 174 41 8 
41 870 221 264 123 177 66 19 
42 849 317 218 60 178 62 14 
43 826 281 236 102 162 31 14 
45 811 239 166 190 178 35 3 
大正2年  829 335 165 62 213 43 11 
3 893 337 136 135 223 59 3 
4 829 378 118 79 212 39 3 
5 825 376 144 132 138 29 6 
6 924 373 163 136 182 59 11 
7 970 299 171 209 248 41 4 
8 984 319 158 223 239 37 8 
9 1,089 487 172 114 182 127 7 
10 809 433 102 113 134 25 2 

大正10年からは,千葉郡の統計から千葉町の分が除かれている。
大正9~10年の差から,千葉町の壮丁数は当時280~290人と推定される。


 日清・日露戦役に忠君愛国の教育が徹底したとはいえ、徴兵忌避の考えは心の奥底にかくれていた。一般の国民は忠君愛国の精神を支柱として戦場に立った。また、他面には憲兵隊からうける圧迫に対する恐怖もあった。しかし、一部の者はこれらの圧力から逃げだすこともできた。明治三十八年五月六日の『千葉毎日新聞』に富豪の子弟の徴兵のがれを報道している。
   徴兵令と富豪の子弟
 今般発布せられたる国民兵召集及び徴兵令等により召集せられんとする富豪の子弟は 名を視察の名儀に借り 或は商業工業又は農業視察として欧米に行かんとし 是が出願をなす者甚だ多く 当局者も大に苦心しつつある由にて 却下するにも其理由なく 左りとて毎日数十通出願を全部許可するにも至り難く 頗る困難を感じ居ると云ふ。

 こうして富豪の子弟であるが故に戦時中にも徴兵のがれができた。明治初期にも代人料金二七〇円を納めると兵役の義務は免除されたことと同じである。富豪の子弟ではない一般国民に戦争の重荷がのしかかり、戦場に立って、多くの人々が戦傷し、戦死していった。