西南戦役

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 明治十年(一八七七)、征韓論をめぐって西郷隆盛を中心として鹿児島県の不平士族が叛乱をおこした国内戦があっる。この叛乱を鎮圧するために徴兵令によって組織された国軍を使用した。この軍隊は百姓・町人から出身した兵士と関東・東北の士族から募った警察隊であり、近代的装備と洋式訓練の成果をあらわした。この戦役に郷土から召集され、出征した兵士の数はわからない。この戦役の戦死者は、郷土から白井村の三名、犢橋村の二名、幕張町の一名、計六名であった。戦死者は激戦地として知られた田原坂、ニエ峠、五田山などの鹿児島県の戦場で戦死した。この戦死者の勲等・功級・特別賜金については不明である。また、この戦役の従軍受賞者は更科村に一名、犢橋村に一名、都賀村に一名、千城村に二名、計五名であった。従軍受賞者とは戦傷をうけて除隊するときに「賜金」を受けた者である。賜金は兵士の階級と戦傷の程度によって差があった。歩卒は一〇円から一五円、下士官(軍曹)は二〇円の賜金であった。
 千葉県は軍隊の管轄からいえば、東京鎮台の佐倉歩兵第二連隊(後に第五十七連隊)に属していた。召集されて歩卒ならば月給一円二銭五厘を与えられたことが、当時の軍隊手帳からわかった。この戦役に従軍した佐倉連隊の記録は次のとおりである。
 佐倉連隊は明治十年二月十六日に佐倉を出発、徒歩で東京の新橋まで行軍、新橋から横浜まで汽車に乗った。横浜港から海路で九州の福岡に上陸した。それから徒歩で久留米、鍋田、鳥ノ巣を経て熊本に達した。戦場は熊本県、宮崎県、鹿児島県の各地において十数回も戦闘している。このうち敗退すること数回もあり、戦死者、戦傷者を多数だしている。同年九月二十四日鹿児島において叛乱軍を平定した。同月二十八日鹿児島港から乗船し、十月一日に神戸に上陸した。同月三日に神戸を汽車で出発して京都に到着した。京都から東海道を行軍し、十一月一日に佐倉に凱旋した。この戦役において、郷土の人々が出征兵士をいかに送り、いかに迎えたかはわからない。
 明治二十七、八年の日清戦争と、それにつづく新領土の台湾の土匪討伐戦には、郷土から多数の出征兵士があった。この数は不明であるが、戦死者が一名、戦病死者が一八名(清国の戦場の戦病者四名、台湾の澎湖島の戦病者二名、台湾島の戦病者八名、後送されて広島陸軍病院の戦病者四名)であった。戦病者を出身地別にみれば、千葉町が五名、蘇我町が二名、白井村が三名、検見川町が二名、生実浜野村が一名、更科村が一名、千城村が一名、幕張村が一名、誉田村が一名、椎名村が一名(土気町は不明)であった。また、従軍受賞者は、将校二名、下士官一七名、兵卒一二二名、計一四一名であった。これらの人々の勲章功級は、将校が勲六等単光旭日章、賜金一五〇円~一二五円であり、下士官・兵は勲八等瑞宝章か勲八等白色桐葉章と賜金をうけた。賜金は階級と戦傷の程度でちがい、最高の一七〇円が一名、百円が五名、五〇円が三一名、三五円が二二名、三二円が七名、三〇円が四名、二七円が一名、二五円が六五名であった。これらの従軍受賞者はあるいは手を失い、足を失い、目を失った廃兵であり、戦死や戦病死をまぬがれた戦傷兵であった。また、戦死者・戦病死者は、下士官三名、兵卒九名、残り七名は軍役夫であった。この戦没者の遺族に支給された特別賜金は兵卒は一二〇円であり、下士官はそれより多く、軍役夫はかなりすくなかった。明治三十年の白米一石の平均価格はほぼ一〇円であった。日清戦争がおこると、銃後の郷土として、出征軍人を送迎したり、恤兵金を寄付したり、軍事公債に応募したり、遺家族を慰問したりした。明治二十八年五月講和条約がなり、郷土の千葉町や町村において戦勝祝賀会が行われた。また、出征軍人が凱旋するや、盛大な歓迎の宴が官民合同で開かれ、さらに戦没者慰霊祭が開かれた。