戦死者と戦傷者

294 ~ 296 / 492ページ
 明治三十七・八年の日露戦争は世界最強の大陸軍とバルチック艦隊という大海軍を併せもつ世界最大の強国を相手にした戦争であった。その主戦場は陸軍が満州の大陸であり、海軍は東支那海や日本海であった。この戦役における郷土の戦死者と戦傷者はまことに多く、日清戦争の比ではなかった。日清戦役では戦死者一名、戦病者一七名、戦傷者は一四一名であった。日露戦役の一〇年後におこった第一次世界大戦においては、戦死者二名、戦傷者一三七名であった。これらに対して日露戦争の戦死者は九四名、戦傷者は一、二四九名にのぼった。郷土から動員召集された兵士の数はいくばくであったか、何歳までの人々が召集されたかは不明である。戦死者の生年月日を整理してみて動員召集された人々の年齢から推定するよりほかはない。五―四一表によれば、将校三名は、一人が安政元年(一八五四)生れで五一歳であり、他の一人は安政五年生れで四六歳であり、佐官階級で現役であった。残りの一人は慶応二年(一八六六)生れの尉官階級で後備役であった。下士官・兵の最年長者は三七歳(明治元年生れ)であった。明治元年生れから明治十年生れ(二八歳)までは後備兵であり、戦死者の総数九一名のうち一八名、一九・七パーセントを占めていた。明治十一年生れ(二七歳)から同十四年生れ(二四歳)までは予備役・補充兵であり、戦死者が三九名、総数の四二・八パーセントを占めた。明治十五年生れ(二三歳)から同十七年生れ(二一歳)までは現役兵であり、戦死者が三五名、総数の三八・五パーセントを占めていた。日露戦争の動員召集は予備役と現役を中心として行い、更に兵員数が不足して、後備兵まで召集したものであった。戦争に召集された者は当時の年齢三七歳から二一歳までの壮丁であった。この年齢層の男子人口は年々の壮丁検査の数(五―四〇表)から推計して約一万二千人である。このうち甲種、第一乙種、第二乙種の合格者数は、平均七五パーセントであったから、約九千人と考えられる。このうち現役と予備役は大部分が召集されても約三千五百名、更に後備役五千五百名のうち過半は召集されたであろう。そして戦死、戦傷者合せて一、三四〇名であった。日露戦役が終わってみれば、郷土の三七歳から二一歳まで男子は九人に一人は戦傷者であったことになる。日露戦争において激戦場で偉大な勲功を立てた著名な将軍が、「一将功成り万骨枯る」と懐想したことがあった。まさに日露戦争では万骨が枯れるという感があった。
5―41表 日露戦役の戦死者の年齢
出生年度年齢戦死者数兵役
明治元年37歳3人
 236 1 後備役
 335 ― 
 434 3 
 533 1 
 632 2 
 731 2 
 830 2 
 929 0 
 1028 4 
 1127 7 予備役
 1226 4 
 1325 12 
 1424 16 
 1523 17 現役
 1622 13 
 1721 5 
92 

 日露戦争の従軍受賞者(戦傷者)は一、二四九名に達した。これらの人々は勲章と賜金をうけた。勲章は勲八等瑞宝章、勲八等白色桐葉章、勲八等青色桐葉章などが多く、戦功が高ければ勲七等の瑞宝章や桐葉章を与えられた。特別に戦功が高ければ、功七級金鵄勲章も併せて与えられ、年金百円を給された。郷土において金鵄勲章をうけた人は五四名にのぼる。また戦傷の程度によってうけた賜金は、兵卒の八〇円がもっとも多くて三二二人であり、百円が一六二人、一五〇――一八〇円が一九〇人である。最高は二五〇円であり、最低は三五円で一二〇人である。下士官は百円から二百円がもっとも多く、最高の四八〇円が一名である。戦死者に対する特別賜金は二等卒は四四〇円、一等卒は四七〇円、上等兵五二〇円であった。また、下士官は六百円、将校は二千六百円であった。戦病死者には二等卒が二百円、一等卒が二四〇円、上等兵が二六〇円であった。このころの白米一石の価格は明治三十九年に一五円、同四十年に一七円と戦後景気のため物価が高騰していた。
5―42表 日露戦役における従軍受賞者数
受賞金
地区    
35円50円~6070円80円100円150円~180200円250円~300350円~480年金100円年金300円
千葉 18人19人36人70人36人38人29人7人3人13人― 269人
蘇我 8 6 9 21 9 16 9 1 ― 6 ― 85 
生実浜野 11 3 13 24 18 21 13 3 ― 4 1 111 
椎名 2 2 3 13 9 7 4 1 ― 1 ― 42 
誉田 4 8 8 26 5 8 5 ― 1 3 1 69 
白井 6 5 7 4 12 9 9 1 ― 4 ― 57 
更科 7 4 7 13 9 14 9 5 2 3 2 75 
千城 11 ― 6 16 7 8 10 1 ― 6 ― 65 
都 5 2 3 16 11 10 9 1 1 3 1 62 
都賀 10 8 6 16 10 9 15 1 ― 1 ― 76 
犢橋 11 2 11 17 8 9 14 4 ― 1 ― 77 
検見川 19 7 12 25 16 13 11 ― ― 6 ― 109 
幕張 8 6 9 61 12 28 17 5 1 5 1 153 
合計 120 72 130 322 162 190 154 29 8 56 6 1,249 

 郷土のどこの墓地にいっても日露戦争の戦死者の墓がみられる。その墓はどこの墓地でも目だつほどりっぱにつくられている。遺家族は特別賜金を受けて、一面には名誉の戦死を誇りながら、他面には若くして戦死した人に対して無限の悲しみを秘めながらつくったものであった。従軍受賞者は帰還してから、戦傷や戦病が原因となって、あるいは廃人となり、あるいは短命に終わった人々が多かった。戦傷者として生き残った人々は、不自由な身体をもって物価騰貴の時代に家族を養うべく生計を立てていくことはあまりにもむずかしかった。明治政府は、明治三十九年九月に廃兵院条例を公布して、生活に困る戦傷者の収容施設の基金を管理した。しかし、この施設に収容された人はまことにすくなかった。このころ戦傷者のうち、白衣の行商人となって、片腕で薬を売り、片足で筆墨をひさぎ、家族の糊口をしのぐ人々もあった。世は戦後景気と戦勝国気分で我が世の春を楽しむ人々が多い中に、廃兵となった戦傷兵はその悲しい運命を抗議する術もなく生活苦にたえなければならなかった。また、郷土の神社の境内に日露戦争の戦勝記念碑が見うけられる。これは出征兵士が無事に凱旋したことを産土神(うぶすながみ)に感謝して建立したものである。出征兵士として、満州の激戦場によくも生き残ったと感慨無量の感があったと思われる。日露戦役に出征した兵士はもっとも若かった人々でも、今日まで生きのびてきたならば、すでに百歳に近い人々である。日露戦争の体験談を語る人はもはやこの世にいなくなった。