恤兵会の活動

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 戦争がはげしくなるにともなって、出征兵士は現役兵のみならず、予備役、後備役、補充兵役、国民兵にまで召集の手がのびた。これらの人々は家庭にあって主な働き手であり、家計の大黒柱であったから、召集されるとその家庭は収入がとだえて生活が困難となった。このような出征兵士の家庭を救済することが重要な対策となった。また、出征兵士の見送り、戦地にある郷土兵士への慰問をしなければならなかった。激戦の後には戦傷兵、戦病兵が多く、やがて戦死者の遺骨が送られてきた。戦地の野戦病院や後方の軍病院にある戦傷兵、戦病兵の慰問や戦死者の葬儀がにわかに多くなった。これらを統一的に行うために一つの団体が成立した。この団体がいわゆる「恤兵会」であった。
 政府の出征兵士の救助対策 明治政府は各府県に生活困難な出征兵士の家族を救助させた。明治三十七年四月に勅令第九四号をもって「下士兵卒家族救助会」を発布した。内務省は省令「下士兵卒家族救助令施行規則」を発令した。千葉県は「家族救助願に関する手続」と「救助願」、「救助金取扱」を作った。この救助対策をはじめたが、救助願を提出する家族はまことにすくなかった。千葉郡全体において二二四家族であり、郷土(現在の千葉市の市域にあたる町村)において一八六家族であった。現役兵の家族は七でもっとも少なかった。予備兵の家族は三七、後備役の家族は九四でもっとも多かった。補充兵役の家族は三八、国民兵の家族は一〇であった。出征兵士の家族は当時の時代思想によって救助を受けることを恥とした。また、県と町村は救助を必要としている家族をさがしだすことに不充分であった。後述する町村の恤兵会の救助によってその穴埋めがされた。郷土の恤兵会は千葉町恤兵会をはじめそれぞれの町村に恤兵会があったが、戦時中を通じて救助しつづけた家族数は二七一にのぼっていた。
 恤兵会の活動 恤兵会は明治三十七年二月に組織された。郡恤兵会を上部機関とし、町(村)ごとに町(村)恤兵会を下部機関とした。恤兵会の目的はその規約によれば「出征軍人、応召軍人ならびに遺家族の慰労、救恤と戦病死者、戦死者の弔祭」をすることにあった。郡恤兵会は上部機関として事業の第一に「町村恤兵会ヲ統率シ ナルベク画一ノ方針ヲトラシメ ソノ目的ヲ遂行スルコト」であった。これに対して町(村)恤兵会の事業の第一は「軍事国庫債券ノ応募ヲ勧誘シ 恤兵寄付金オヨビ軍資献金ヲ勧奨スル」ことであった。この活動の資金は寄付金でまかない、「大約一戸三十銭マタハ五十銭ヲ町(村)恤兵会ニ 一戸三銭マタハ五銭ヲ郡恤兵会ニ」寄付金を募集した。郡恤兵会の会長は郡長であり、町(村)恤兵会の会長は町(村)長であった。
 郡恤兵会も町(村)恤兵会もその事業に多忙をきわめた。出征する佐倉連隊が千葉駅を通過するごとに駅頭見送りをした。その回数は千葉駅見送りのみで五一回となっている。また、町(村)恤兵会も出征兵士を見送った。千葉町恤兵会は九一回になり、他の町(村)恤兵会も数十回におよんでいる。第一回の見送りは、明治三十七年三月二十一日で、歩兵第二連隊の連隊長以下千三百名が千葉駅を通過して満州の戦場に向かった。このときの状況は『千葉郡誌』にのべられている。
 千葉市中は毎戸国旗をかかげ、球燈をつるし、停車場ホームの両側には万国旗および大小の旭旗を交叉し、町村恤兵会・赤十字・愛国婦人会その他の各町内の歓送旗数十流をたて、多数の男女老幼は、在葉諸官、公吏、師範学校、中学校、高等女学校、千葉町立尋常高等小学校に付きしたがい、小学児童は小国旗をかかげ、手をあげ、帽をふるい、各町村内には青年音楽隊を組織し、旗鼓堂々、壮絶をきわめたり

 『千葉郡誌』によれば、この見送り人は町長以下二千七百名とあり、出征兵士一人に巻煙草朝日を一個ずつ贈ったので、見送り費用の総決算に朝日一万六二六六個と記されている。また、明治三十八年十月三十一日に第一回の凱旋将兵の出迎えに千葉駅へ行ってから、二一回の出迎えを行った。この出迎えも見送りの場合と同じような方法であった。
 また、恤兵会は慰問袋を送った。慰問袋の中味は干菓子、乾栗、豆、煙草、薬、日用品、靴下、腹巻、歯みがき、紙類などであった。発送した慰問袋は明治三十七年十二月十九日に一万七百個、価格が二、八四三円であった。あるいは郷土部隊へ慰問文を送り、戦傷兵、戦病兵に慰問品、慰問文を送った。あるいは出征兵士の留守家族の困窮しているとき、月々に最高二円から最低五〇銭の金銭を贈り、労力奉仕をしてその生業を援助した。
 恤兵会の大きな業務は戦没者の葬儀であった。明治三十七年八月二十日に戦死者の第一回の葬儀があり、明治三十九年七月三十一日の葬儀を最後とした。その葬儀の一例として明治三十七年十二月一日の旅順口の激戦で戦死した寒川町の陸軍上等兵長谷川芳太郎の葬儀を『千葉毎日新聞』が明治三十八年三月十二日に報道している。
 十一日午後一時より同町寒川埋立地において葬儀は執行せられたり。埋立地の中央に横十間、縦二十間ばかり紅白の幕にて囲い、正面簀張りの小屋には薦冥福という額面をかかげ、霊柩を安置し、柩前には導師三人法華経を読唱し、終って鈴木恤兵会長、永井参事官、神田郡長代理、浜島警視、高木典獄代理、在郷軍人代表、由比中学校長、小池高等女学校長、県県属、仁科寒川小学校長、太田茂、奥田守中氏等の弔詞および焼香ありて、式全く了へたるは午後三時なりし。当日皇軍奉天城を占領せし報達したることとて、町内一般国旗をかかげて相祝する中を、勇士の霊柩粛々として式場より埋葬地に行く、感慨ことに多かりし、会葬者の重なるものは戦死者遺家族、恤兵会員、付近町村吏員、在郷軍人、県会議員、郡会議員、赤十字社員、軍人遺家族慰問協会員、出征家族慰問協会員などにして、一般会葬者を合せて会衆約千五百名。