遼陽占領祝捷会 三十七年九月五日
旅順開城祝捷会 三十八年一月五日
奉天付近大捷祝捷会 三十八年三月十八日
日本海戦大捷祝捷会 三十八年五月三十日
これらの祝捷会は当日の盛況はいうまでもないが、その前景気もわきたつようなもりあがりであった。「千葉町の旅順祝捷の前景気」として、『千葉毎日新聞』の三十七年八月二十六日の記事がその状況を報じている。
今か今かと待ちわぶるうちが花ぞかし、さても当千葉町における旅順陥落公報発表前の景況と云わば何様大したものにて、町役場の主唱発議にかかる町民としての大祝捷会はかねて記する通りの準備にて花々しく催ふさるこというまでもなく、其の他さらに官民個々銘々の催ふし種々雑多の準備一々あげきたれば紙をかふるもなおたらず、特に県庁、裁判所、医学校、師範、中学、郡役所、税務署、警察署、郵便局等の官吏教育家および在葉各銀行、諸会社の人々いずれもそれぞれの計画あり、すでに都川辺の貸小舟、寒川、向寒川より遠く、登戸辺の漁船、荷船おおむねすでに借切の前約ありて、払底をつぐる有様なれば船賃の如きも平常に二倍三倍の景気なりとぞ。されば旅順陥落公報到着当夜より翌夜あたりにかけての袖師ケ浦の賑い今より思いやらるる次第なり。又市内の提灯屋はいづれも夜を日につぎての繁昌、あつらえ間に合はで他より仕入れをなして得意の用を弁ぜるもあり。ために代価も平常に倍し、小形の紅燈一個七八銭の高価となり、ろうそく屋も仕入れをいそげば、国旗屋もお得意の注文に目をまわす有様、本町三丁目の五十嵐糸店の如き昨今国旗の飾紐の注文多く、一昨日の如き午後より日没までに三十幾組の売出しあり、職工の手廻りきれぬほどにてありしとぞ。また名にしおう梅松楼、加納屋、吾妻倶楽部、海老屋、川万楼、常盤楼等の吾妻町界隈の料理店をはじめ村田屋(道場)、遊楽(新通町)、安田楼(長洲)、相原楼(市場)、長崎楼(寒川)、湊屋(長洲)、富士見(蓮池)その他の大小料理店も久しく寐入りたる景気の市況、旅順陥落の着報と同時に回復して、一時はヤンヤの繁昌なるべしとの見込よりして、上玉の酌婦を抱へいるるもあり、各楼思ひ/\の揃衣を注文するありて前月末不景気に泣きはれたらん顔つきの何となく艶付てきし様子なるもおかしく、従って各芸妓連もおかげで息を吹きかへし、日本軍人大した働きですとヒイキの懸声一入に力あり、なお公報到着をまって細報するところあるべし
このように旅順陥落は当時の国民全体がまちわびたニュースであった。しかし、ステッセル将軍が旅順を開城して降伏したのは、明治三十八年一月一日であった。この新聞の報道よりも四カ月も後のことであった。この間に敵屍約二万といわれた遼陽の会戦が九月四日にあり、敵屍一万といわれた沙河の会戦が十月九日にあった。十一月二十六日旅順総攻撃の開始、三千の白だすき隊が松樹山堡塁を奪取、同三十日二〇三高地を占領、「屍山を覆って山形あらたまる」という激戦が展開されて、ようやく旅順は陥落した。旅順陥落の祝捷会は盛大に開かれたのであるが、三十七年九月七日の『千葉毎日新聞』の記事にあるところの九月五日の遼陽占領祝捷会の状況を転載しよう。
万歳!! 万歳々々!!
…火と水の千葉町…
両国勝敗のわかるるいわゆる日露の関ケ原ともいうべき遼陽を占領したるその祝意を表さんがためのわが千葉町民の一大提灯行列は一昨五日午後七時より寒川出洲において尤も盛大に挙行せられたり。今当夜の景況を記さんに旅順々々と取っておきの祝捷準備をここにことごとくくりあげたることなれば、その盛況実にかつて見ざるの有様にてまづ午後二時より体育会運動場において絶えず花火を打ちあげて景気をそへ、戸毎に国旗、軒提灯はさらなり、市内要所々々に球燈、各国々旗を山形にひき渡したるより、飾り旗大国旗の交叉、大燈籠のしかけ等、その壮麗いわん方なきに各区かねて用意の花車、大万燈等われ劣らじとひき出したることなれば、層一層の美観をそえてために火の町に化せんとする折柄天無情、曇りがちなりし空あいにわかに真黒々に染めなされてスワというまもなくしのつくばかりの大雨となり、せっかく意匠をこらせし花車万燈はあわれめちゃめちゃにこわれんとし、全町たちまち暗黒のうちに包まれんとしたるが、糞ッ日本男子は雨ぐらいに驚かぬ戦地にある者を思へば屁でもないぞッと力こぶ入れて覆盆の大雨を物ともせず、登戸区民は楽隊勇ましく式場に進み、南道場区民もワァーとばかり花車万燈をひきだしたるにぞ各区とも急に元気づき至る所にわいしょい/\!! 万歳!!
これまさに火と水の争い、雨は火を消さんとし、火は雨を焼かんとするその壮観、何者の美かこれに比ふべくもなしと思えしが、町民がかくまで熱心なるその赤誠にはさすがの雨もかなはじと思いけん、やがて二十分ばかりの後には雨足はたと止みたるより一気に押よせし出洲一面見るが中に一大火の山を築き、星一つなき黒暗々の天をば炎々さながら焼かんと思はるゝばかり、殊に燈影袖ケ浦に落ちしその様は数千の銀河一時に降ってここにあるにあらじかを疑はれたり。
かくて行列の一行ことごとく到着するや、当夜の委員長知事石原健三氏はそこに高くしつらへられし式壇に立ちて開会の旨趣をのべ、次に君が代の奏楽あり、ついでは委員長の祝詞、神田郡長の祝詞および町民より大山満洲軍総指揮官に送るべき祝電の朗読あり、終つて委員長の音頭に従い、両陛下の万歳、帝国陸海軍の万歳を各三唱せし時は袖ケ浦の波躍って天をつき、天反響に打たれて崩れ落ちんばかりなりし。かくて式は終り、隊伍堂々各々その区に引返して全く散会せしは十二時をすぐるころ、参列者実に無慮一万五、六千と談せられし。而して各区の花車その他は本町一丁目は旭日の下に黒鳩のすくみおる小気味よき花車(高さ二丈二尺)にて、同二丁目は高さ一丈幅五尺長さ六尺もの同三丁目はおそなえの花車、吾妻町三丁目は長さ二間半高さ一丈の模造軍艦、房総鉄道会社車輪部は長さ三間高サ九尺幅七尺の模造機関車、市場町は直径三尺高サ四間にあまる模造日本刀、院内は錨に霊鷹の止まりし高サ一丈六尺幅一丈のもののその鷹の両翼にアセチリンガスを点ぜしは当夜第一の上出来なりし。
これまさに火と水の争い、雨は火を消さんとし、火は雨を焼かんとするその壮観、何者の美かこれに比ふべくもなしと思えしが、町民がかくまで熱心なるその赤誠にはさすがの雨もかなはじと思いけん、やがて二十分ばかりの後には雨足はたと止みたるより一気に押よせし出洲一面見るが中に一大火の山を築き、星一つなき黒暗々の天をば炎々さながら焼かんと思はるゝばかり、殊に燈影袖ケ浦に落ちしその様は数千の銀河一時に降ってここにあるにあらじかを疑はれたり。
かくて行列の一行ことごとく到着するや、当夜の委員長知事石原健三氏はそこに高くしつらへられし式壇に立ちて開会の旨趣をのべ、次に君が代の奏楽あり、ついでは委員長の祝詞、神田郡長の祝詞および町民より大山満洲軍総指揮官に送るべき祝電の朗読あり、終つて委員長の音頭に従い、両陛下の万歳、帝国陸海軍の万歳を各三唱せし時は袖ケ浦の波躍って天をつき、天反響に打たれて崩れ落ちんばかりなりし。かくて式は終り、隊伍堂々各々その区に引返して全く散会せしは十二時をすぐるころ、参列者実に無慮一万五、六千と談せられし。而して各区の花車その他は本町一丁目は旭日の下に黒鳩のすくみおる小気味よき花車(高さ二丈二尺)にて、同二丁目は高さ一丈幅五尺長さ六尺もの同三丁目はおそなえの花車、吾妻町三丁目は長さ二間半高さ一丈の模造軍艦、房総鉄道会社車輪部は長さ三間高サ九尺幅七尺の模造機関車、市場町は直径三尺高サ四間にあまる模造日本刀、院内は錨に霊鷹の止まりし高サ一丈六尺幅一丈のもののその鷹の両翼にアセチリンガスを点ぜしは当夜第一の上出来なりし。
このような祝賀会の一大絵巻がいくたびかくりかえされた。人口三万人の当時の千葉町においてその二分の一が祝賀会に参加したという新聞や千葉郡誌の記載は疑わずにそのままにここにも書き記すことにする。そして最後に明治三十九年四月十六日、県庁側広場において凱旋軍隊歓迎会が参加者二千八百名、凱旋軍人一、六六四名を集めて開かれた。これをもって日露戦役の戦捷祝賀会はすべて終わった。
日露戦争のさなかに軍隊における兵士、戦場における兵士がいかに待遇されているかという実態に対して反省が国民の間にひろがったことに注意したい。明治三十八年四月五日付の『千葉毎日新聞』に「戦争と人格」と題する社説がかかげられている。このような社説は満州事変から第二次大戦が終わるまでならば、いかなる新聞も掲載できないであろう。日露戦争当時はそれほどに新聞に対する政府、憲兵隊、特高などの検閲がきびしくなく、言論統制も徹底していなかった。軍隊生活に経験ある者ならばこの社説の内容を身をもって体験していることである。日露戦争当時はあれほどの大戦争をしていても、この社説がでるような社会的なおおらかさが官民の間に存在していた。この社説を抜粋して次にかかげよう。
戦争と人格
今や戦争は、幾多の無名の英雄を殺しつつあり。無名の英雄は、名誉の戦死てふ名の下に、恰も黒板に画かれたる人形が抹殺せらるるが如くに、此の世より消え去れり。彼等はもとより君国のために一身を犠牲にして悔いざるもの、笑うて敵弾にたふる。……国家はすなわち賜うに厚き恩賞をもってし、弔うに永き祭祀をもってす。彼等死して余栄あり。もって瞑すべしとなさんか。
しかれども戦陣の間にある彼等はいかん。彼等は一個の人間として人間相当の価格を保ち、人間相当の待遇をうくるか。軍隊の組織よりし、軍隊の節制よりすれば、人間をもって器械の如く取扱うはやむべからざるのことなりとせん。……然れども戦争を国家より要求せられ、生命を戦争に要求せられ、而して甘んじてその要求に応じ、死を見ること帰るが如く、一身を国家に捧ぐるの軍人は、これ実に人生のもっとも悲惨なる貢献にして、国家のもっとも崇美なる犠牲にあらずや。然るにこの軍人は、戦争においていかにその人格を認めらるるか。無名の英雄に対する人格の観念は、戦争において正に高められつつあるべきはずなり。しかも実際においては、かえって反対の傾向を呈するが如きは何ぞや。これ実に人道の上における一問題にあらずや。
吾人聞けり。軍隊において機械視せらるる兵士は、戦争において消粍品視せらると。かつて一士官の輜重輸卒を叱する声に曰く「貴様よりも馬の方が大切だ」と。いわゆる無名の英雄は、実際に消粍品視せらるることなきか、馬以下視せらるることなきか。国家の崇美なる幾多の犠牲は、単に損害の二字をもつて冷やかに算せられ、砲兵は大砲の付属品の如く、歩兵は突貫の機械の如くみなさるる場合なきにあらず。これ果して人格を認められ、人格を重んぜられつつありというをうるか。……戦争はかくも人命を軽んじ、人間を貴ばざるものか。戦争において人より馬が貴く、人命よりも武器が大切なるか。……彼の無名の英雄が消粍品視せられて戦陣の間に亡するも、その人格の永遠に不滅なるはこれを疑うべからず。……吾人は今の軍人がここに想到して自ら慰むる所あらむと欲す。
しかれども戦陣の間にある彼等はいかん。彼等は一個の人間として人間相当の価格を保ち、人間相当の待遇をうくるか。軍隊の組織よりし、軍隊の節制よりすれば、人間をもって器械の如く取扱うはやむべからざるのことなりとせん。……然れども戦争を国家より要求せられ、生命を戦争に要求せられ、而して甘んじてその要求に応じ、死を見ること帰るが如く、一身を国家に捧ぐるの軍人は、これ実に人生のもっとも悲惨なる貢献にして、国家のもっとも崇美なる犠牲にあらずや。然るにこの軍人は、戦争においていかにその人格を認めらるるか。無名の英雄に対する人格の観念は、戦争において正に高められつつあるべきはずなり。しかも実際においては、かえって反対の傾向を呈するが如きは何ぞや。これ実に人道の上における一問題にあらずや。
吾人聞けり。軍隊において機械視せらるる兵士は、戦争において消粍品視せらると。かつて一士官の輜重輸卒を叱する声に曰く「貴様よりも馬の方が大切だ」と。いわゆる無名の英雄は、実際に消粍品視せらるることなきか、馬以下視せらるることなきか。国家の崇美なる幾多の犠牲は、単に損害の二字をもつて冷やかに算せられ、砲兵は大砲の付属品の如く、歩兵は突貫の機械の如くみなさるる場合なきにあらず。これ果して人格を認められ、人格を重んぜられつつありというをうるか。……戦争はかくも人命を軽んじ、人間を貴ばざるものか。戦争において人より馬が貴く、人命よりも武器が大切なるか。……彼の無名の英雄が消粍品視せられて戦陣の間に亡するも、その人格の永遠に不滅なるはこれを疑うべからず。……吾人は今の軍人がここに想到して自ら慰むる所あらむと欲す。
(原文のまま)