第五項 軍都としての千葉

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 「軍都・千葉」といわれるようになったのは、日露戦役が終わった明治四十年からである。明治末はようやく軍都の芽生えのときであり、本格的に軍都といわれたのは大正末からである。明治末――大正期にかけて軍備拡張によって軍事基地が市川・習志野・千葉・四街道にかけて整備されて、首都防衛線を形成した。
 市川市 明治三十二年(一八九九)に野戦重砲兵第一連隊が国府台におかれた。つづいて野戦重砲兵第七連隊、野戦重砲兵第三旅団司令部や騎砲兵大隊がおかれた。
 習志野市 明治三十二年に騎兵第十三、十四連隊がおかれ、つづいて騎兵旅団司令部や第十五、十六騎兵連隊、鉄道第二連隊、陸軍騎兵学校がおかれた。
 四街道町 野戦砲兵第四連隊、野戦砲兵学校、下志津飛行学校、陸軍下志津衛戌病院などがおかれた。
 千葉市 この軍事基地の一環として、千葉市にも軍隊の基地が市街の北方台地の村々におかれた。
 鉄道第一連隊(明治四十一年)旧都賀村
 鉄道第一連隊材料廠(明治四十二年)穴川、後に陸軍兵器支廠となる。
 陸軍歩兵学校(明治四十三年)旧都賀村

歩兵学校

 千葉陸軍戦車学校(昭和十二年)(後に京葉工業高校の敷地となる)

戦車学校

 陸軍気球隊(昭和二年)歩兵学校の隣接地

気球隊

 陸軍防空学校(昭和十三年)、後に高射砲学校(後に県立女子高校の敷地となる)
 千葉連隊区司令部(昭和六年)
 千葉衛戌病院
 千葉憲兵分隊(明治四十一年)
5―45表 千葉市内の軍用地
部隊名所在地面積
鉄道第一連隊椿森町
34,664
兵器補給廠轟町76,230
気球隊作草部町21,466
歩兵学校作草部町71,677
戦車学校小中台町81,870
防空学校作草部町107,427
歩兵連隊射撃場作草部町17,040
憲兵隊院内町467
410,841

 千葉町は四街道、習志野(津田沼)に隣接して、都市として発達していたので、軍人、軍属が居住してこれらの軍隊に通勤した。昭和七年の千葉市統計によれば、千葉市の俸給生活者が四、〇三五人のうち、軍人は四三五人で、鉄道員、銀行会社員、官吏についで多かった。軍人の住宅は新田、新宿、綿打池、東院内、西院内に密集していた。このほか下宿している軍人や俸給者としての軍属が多かった。日曜、祭日や休日には市内の商店街にはカーキ色の軍服をつけた兵士の姿が到る所に見うけられた。市内の商人には軍隊に軍需品や食料品、日常生活品を供給する御用商人も多かった。昭和期になると満州事変、日華事変がおこり、第二次大戦になると、全国から軍人の出入が多くなり、軍都千葉市の性格が強まっていった。