国内の産業・経済の動向

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 明治後期から大正期にかけて、ほぼ一〇年間隔に大戦争をした。明治二十七、八年の日清戦争、明治三十七、八年の日露戦争、そして大正三――七年までの第一次世界大戦などである。国内の産業経済は一〇年間に物資と軍隊を準備し、二――三年間の戦争によって人命と物資を消耗した。しかし国土が戦場になって産業・社会施設が潰滅した第二次大戦とはちがって、これらの戦争では、国外を戦場とし、国土を軍隊と物資の補給地とした。したがって戦時中には特に国内の産業・経済は大量生産と大量輸送の方向に発展した。そのうえ戦勝国として戦敗国から多額の賠償金をとりあげて、その一部を国内の産業・経済に投資してこれを一層発展させた。そのため国内の投機熱をあおり、各産業の企業の新設や拡張がはげしく、小企業が合同して大企業化が進んだ。「戦時景気」から「戦後景気」がつづいて、戦死者の遺家族が生活に苦しんでいるかたわらに、戦争成金が続出して「戦勝景気」に酔いしれた。しかし国内の経済からも国際経済からも戦後は経済が変動しやすく、戦後の反動的な不況におそわれることをくりかえした。この戦争景気と戦後の反動的不況が大規模に出現したのは第一次大戦前後の経済動向であった。
 第一次大戦は大正三年(一九一四)六月にはじまった。日本は明治三十五年(一九〇二)にむすんだ日英同盟にもとづき、イギリスをふくむ連合国側に味方して、ドイツが中心となっている同盟国側に宣戦を布告した。ドイツは短期決戦計画を考えていたが戦争はながびき、長期消耗戦となった。主戦場のヨーロッパから離れていた日本は産業・経済を大きく発展させる好機となった。日本は海運業・造船業・重化学工業を従来の軽工業に加えて発達させ、連合国に対する戦争物資の供給国となり、海運業もまた発展した。戦時中の産業の発達は工業や流通だけにとどまらず農業にも及んだ。千葉町の中等米の一石の平均値段は、大正三年に一六円であったが、大正九年には四五円にはねあがった。国民の収入が増加し、購買力が高まり、商業も発達した。大正三年の東京卸売物価を一〇〇とすれば、休戦した大正七年には二〇一となり、物価も五年間に二倍になった。戦時中の「戦争景気」があらわれ、物を生産する人々と流通に従事する人々にはまさに戦争ブームであった。この「戦争景気」は大正五年からあらわれ、一年ごとに高まっていった。大正七年(一九一八)七月、連合国の大攻撃、ドイツ軍は敗北、同年十一月にドイツ皇帝は退位、この月に休戦条約が結ばれて第一次大戦はついに終わった。この戦争終結によって日本の経済は一時的にショックをうけたが、それも半年たらずの短い期間であった。大正八年の春ごろからすさまじい「戦後景気」が出現して、生産・流通の各部において活気づいた。ヨーロッパに復興資材と生活物資を生産して輸出した。あらゆる商品の価格は高くなった。東京都内の小売の物価指数をみれば、大正七年に二八四であったが、翌八年の二六九という一時的な下落をはさんで、九年に四一八となり、このときを経済発展のピークとして、その後は不況になり、底なし沼に入りこむように国内経済は悪化の道をたどった。

5―13図 米価の変遷

 大正九年三月にまず東京株式市場の株価が暴落し、あらゆる商品の価格は値くずれをはじめた。東京米穀取引所、横浜生糸取引所、大阪三品取引所は一時的に閉鎖した。地方にある中小銀行にとりつけ騒ぎがおこった。五月には大都市の都市銀行の本店までもとりつけ騒ぎにまきこまれた。政府と日本銀行の努力にもかかわらず、国内経済はますます悪化した。大正十一年になると大商店の破産や銀行の休業や支払停止もあらわれ、中小企業は倒産した。失業者が増加した。国内経済がこのように悪化しているとき、大正十二年九月、関東大地震が発生し、首都東京とその周辺に大被害をおこした。そのため国内経済は急坂をころがり落ちるように加速度的に悪化していき、そのまま昭和初期の世界恐慌の中にまきこまれていった。