千葉町の産業・経済の動向

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 千葉町の産業・経済もまたこの国内経済の動向の中にまきこまれて生長した。戦争景気によって発展し、戦後の反動的不況によって停滞した。この産業・経済の成長過程において、千葉町は県内の多くの都市をぬいて、千葉県の経済の中心都市になりはじめた。県内のどの都市よりも銀行・会社などの集中が大きかった。しかし千葉町の産業・経済の発展は、他地方の県都にくらべれば、かなりおくれて、そのおくれの幅が大きくなっていった。千葉町には三回の戦争を経過するときに、工場の立地がすくなく、生産都市に発展する機会をえられなかった。千葉町は明治・大正・昭和前期を通して消費都市であった。生産機能と消費機能がアンバランスであった。この千葉町の発展は母胎である千葉県の発展を象徴したものであった。千葉県は農林水産業県のままにとどまり、工業県になるのはあまりにもおくれた。千葉県は東京に農林水産物を供給する土地すなわち東京の台所であった。千葉県は東京へ労働力を供給し、千葉県から資本が東京へ流出した。千葉県は鉄道も道路も幹線が通過せず、関東の場末であり、交通の袋小路であった。千葉県の経済のおくれは、県民の精神構造・社会意識のおくれであった。これらは千葉県の体質をつくりあげた。千葉町はこのような体質をもった千葉県の中心都市であり、この状態は明治―大正期にぬぐいとられず、そのまま昭和期にまで持ちこされるのであった。
 千葉町の経済は国内経済の発展よりずれておくれたとはいいながらも、県内では他の都市をぬいて発展をはじめた。これを会社数によって千葉町の産業・経済のあゆみをみよう。日露戦争が終わった明治三十八年と第一次大戦が始まる大正二年と第一次大戦が終わってから二年後の大正九年について、千葉県統計表による会社数の増加は次のようになる。明治三十八年に千葉県の会社数は一〇三となっていた。町村別にみれば、会社は町に六五、村に三七となり、しかも県内の各町村に広く分散していた。千葉町に六、佐原町に五、船橋町や東金町に二という状態であった。会社は特定の都市に多く集中してはいなかった。明治三十八年に千葉町にあった会社は次のとおりである。
 酒類販売の柴田商店、いも類販売の千葉甘藷、千葉新聞売捌き、房総鉄道、海運合資。
 大正二年の千葉県『統計表』によれば、会社数は県内に一三二、株式会社が五一、合資会社が七〇、合名会社が一一に増加した。明治三十八年の『統計表』にあって、大正二年の『統計表』にない会社は六四、明治三十八年の『統計表』になくて大正二年の『統計表』にある会社は九三であった。日露戦争後から第一次大戦までの経済発展の中で、このように多くの会社が消えて、かつまた創立された。これらの会社の業種は、商業・工業関係がもっとも多く、運送業は成長産業として増加し、電燈会社も各地に創立された。会社の創立を町村別にみれば、全県下にひろまり、明治三十八年の状態とあまり変りはない。しかし都市への集中は芽生えてきた。千葉町に一七、銚子町に一一、木更津町に八、成田町に七、横芝町に五、佐倉町と勝浦町に四、鴨川町、大原町、茂原町、東金町、野田町などに三であった。千葉町に大正二年にあった会社は、金融関係が五(千葉信託、甲子信託、猪鼻信託、大正信託、郵便貯蓄奨励会)、葬儀関係(千葉葬儀、積善社)、印刷関係(千葉活版印刷、極東印刷)、千葉常設家畜市場、千葉屠畜、千葉質業、衆楽館、千葉電燈などである。
 第一次大戦後の戦後景気の波にのって会社数は激増した。千葉県の会社数は大正九年に二九三となった。ようやく都市集中が目だつようになり、千葉町、市川、船橋、銚子などの都市に会社が多くなった。千葉町の会社数は、千葉県の総数に占める割合も高くなった。明治三十八年に五パーセント、大正二年に九パーセント、大正九年に一〇パーセントとなった。その業種はようやく多様化してきた。金融関係は六(千葉正信社、岡田金融、千葉証券、瀬尾信託、猪鼻信託、千葉無盡)、人見商店(雑穀肥料販売)、松山堂(雑貨販売)、山口屋洋品店(洋品類販売)、栗原商店(木材販売)、大橋堂製菓、千葉学用品、大日本ミシン加工、沢本呉服店、高橋商店(澱粉・人造肥料販売)、今井製油、日東油脂、曽我野養魚、千葉常設家畜市場、千葉コークス、千葉瓦斯工業、千葉自動車、千葉質業、千葉見番などであった。また運輸業の会社は、千葉駅前に三、本千葉駅前に二、蘇我駅、誉田駅、稲毛駅、幕張駅などの駅前に二、浜野駅前に一、合計一四社もあった。
 日清・日露の両戦争と第一次大戦における戦争景気と戦後の反動的不況による会社数の増減傾向はことのほかに目だっている。日露戦争の戦争景気による会社数と資本金の総計は、明治三十九年には増加したが、翌四十年には会社数も資本金総計も減少しておちこんだ。しかし、この落ちこみの期間は一年あまりで、その後はゆるやかな増加をしながら第一次大戦末の大正六年までつづいた。第一次大戦中は会社数の増加はゆるやかであったが、資本金総計は激増した。会社の規模が大きくなったからである。第一次大戦が終わった大正七年には会社数の減少が目だっている。しかし休戦後の一時的不況から立ちなおって戦後景気であった大正八――九年間に会社数も資本金総計も飛躍的に激増した。そして大正九年からはじまって大正末までつづく反動的不況には会社数も資本金総計もよこばい状態となった。その後は昭和初期に短期間の好況をへて、慢性的な不況である昭和恐慌につながっていった。