このころの千葉町の産業構造を産業別世帯からうかがうことができる。大正十一年には世帯数七、一八九のうち、商業世帯が四〇パーセントでもっとも多く、第二位は公務・自由業世帯の二四・八パーセント、第三位は工業世帯の一〇・五パーセントであった。商業世帯は本業とするものが二、八六七であり、副業とするものが一、九四一もあったから、商業を営む世帯は総数の六六パーセントであった。千葉市は明治以来から「商人の町」であった。また千葉市は官史の千葉、といわれたように、県都としての官庁が集中し、学術の中心として学校が多かった。また病院が多く、新聞社の地元紙が三、東京の新聞社の支局が九もあった。このように千葉市の世帯の八〇パーセントあまりが非生産的・消費的な世帯であった。生産的世帯は、農業・漁業の世帯は八・八パーセントであり、工場は約二百余、どの工場も従業員がすくない零細企業であった。工業の業種も農・林・水産物の加工業が多く、金属・機械工業や化学工業はすくなかった。このほかに軍隊の千葉、学生の千葉といわれたように、統計にあらわれない軍人や学生も多かった。千葉市はまったく「消費都市」であって、「生産都市」でなかった。
世帯数 職業 | 本業 | 副業 | |
世帯数 | 構成比 | 世帯数 | |
% | |||
総数 | 7,189 | 100 | 3,727 |
農業 | 414 | 5.7 | 478 |
水産業 | 221 | 3.1 | 673 |
工業 | 756 | 10.5 | 398 |
商業 | 2,867 | 39.9 | 1,941 |
交通業 | 367 | 5.1 | ― |
公務・自由業 | 1,783 | 24.8 | 194 |
その他の有業 | 399 | 5.5 | 70 |
無職 | 382 | 5.3 | ― |
この千葉市の経済について、大正十五年発行の『管内駅勢要覧』(千葉運輸事務所)が適切に説明している。千葉市は、
県庁所在地として県下行政司法教育の中心地たるはもとより、總武・房總の二線この地に合し、京成電鉄の本市東京間を往復するあり。実に県下交通の要路にも当たれり。しかれどもこれを産業上より見るときは甚だ振はざるの感なきあたわず。すなわち商業もとより第一に位すといえども、これさえ近代的経営法を採れる大商店を見ず、多くは日用物資の小売店の範囲を越えず……金融機関も単に地方資金を吸収して中央市場に運ぶを任務とするのみ。唯わずかに特筆すべきは、本市が県下の繭の大集散地たることにして、長野県下の有力なる製糸業者によりて経営せらるる多数の繭乾燥場存し、毎年繭時期業者が続々として本市に入りこみ、県下各地において買集めたる生繭を本市に集荷、乾燥の上目的地に転送するをもって市中これがため一時もっとも活気を呈するを常とす。農業は大消費地たる東京を控え、甘藷里芋などの蔬菜類の移出相当量に上るといえども……米の如きは市民の需要を充たすに足らず。県下各地より多大の移入をなしつつあり。工業また極めて不振にして、多くは家内工業の域を脱せず、松本米穀製粉、日東製氷、参松製飴などの二・三生産工場として見るべきものありといえどもこれすら多く他府県人の投資に依る。
市民の生業所得の上より見るも、商業者首位に位し、公務自由職業者これに次ぎ、税務署所得額の査定における内訳によれば、俸給給料歳費は最大なる商業所得と略伯仲す。
このような千葉町の都市経済は「生産の町に非ずして消費の町なり」といい、生産と消費のアンバランスを指摘していた。明治前期から千葉町の町財政問題がつねにやかましく、市制施行が人口規模の拡大にかかわらず、他の都市よりおくれたのは、財政が困難であったことによる。これは税制の確立が未成熟であっただけでなく、税収を大きくする産業や企業の発達がみられなかったからである。そのため納税の負担は商業者より俸給生活者に重く、俸給生活者の不満が大きかった。
5―14図 大正末の千葉市の市街図(『千葉県史』)