郡制の廃止

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明治二十九年官制による郡制がスタートしてから二十数年にわたった郡制は大正十年法律第六十三号の公布によって同十二年に廃止となった。県下の各郡では郡立の中等学校、実業学校があったため設備の充実をはかり、これを県立に移管せんとして苦心があったようだが、千葉市には、そうした施設がなかったので極めて平凡に処理できたと『千葉郡誌』に出ている。
 この郡制廃止により、県では同十二年三月三十日県告示第百二十四号をもって、各郡所属の営造物及び事業の処分並びに権利義務の帰属を明示している。そのいきさつをみると次のとおりである。
 
 県告示第百二十四号(摘要)
 大正十年法律第六十三号第二条第一項ニ依リ千葉郡外十一郡ニ属スル営造物及事業ノ處分並権利義務ノ帰属ハ郡制廃止ノ日ヲ期トシ内務大臣ニ於テ左記ノ通定メラレタリ
     記
 千葉郡
 一、千葉郡所属電話ニ関スル権利
 一、千葉郡会及同郡参事会所属動産一切
 一、千葉郡吏員所属動産一切
  以上千葉県ニ帰属
 一、千葉郡積立金
  蓄積以来の町村分賦額に比準し郡内各町村に帰属
 
 最後の郡会は大正十二年三月二十七日及び三十日に開かれ、前記の処分、帰属を決定したのち解散となっている。郡制廃止当時の郡長、郡会議員については、千葉市は市制施行によって郡会議員は無関係になっているようだ。しかしその後合併町村など関係があるので参考までにあげる。
 郡長    鷲野重光
 郡会議長  高橋喜惣治
 郡会議員  水野茂八
 同     大塚四方吉
 同     金子市太郎
 同     島田規
 同     石原菊次郎
 同     猪野儀十郎
 同     長谷川量
 同     長島金三郎
 同     湯浅覚蔵
 郡会議員  海老原仁三郎
 同     藤代半七
 同     並木市之助
 同     志村由蔵
 同     中台僚三郎
 同     広瀬秋之助
 同     吉野仁平治
 同     高橋益次郎
 同     大草永助
 同     角瀬源之助
 ほかに郡書記が一一人、視学一人、技手五人、主事補一人の職員がいた。このほか千葉郡では郡制廃止記念事業として十二年一月十一日から十三日までの三日間、都賀尋常高等小学校で農産物共進会を開いている。
 出品点数は三、一三五点にのぼり、ほかに小学校児童の農業実習生産品四五二点を加え、合計三、五八七点の多きに達した。三日間の観覧者連日のように殺到し、大盛況であったし、最終日入賞者の表彰式には斎藤守圀知事も出席している。
 基本財産増殖及び管理規程は明治三十七年に施行され、郡の自治体としての基礎がために当てられた。大正十年一月現在の基本金合計額は、六、〇七一円八二銭二厘、備品価格合計は一、九九〇円四二銭と記されている。その内わけは次のとおりとなっている。どちらも『千葉郡誌』からであるが数字に誤差がある。
 ▽諸公債証書八枚、一千六百円▽預金二千七百五拾円▽同四百九拾九円七拾六銭二厘▽図書類百六拾八冊百拾八円五拾銭▽器具機械類五百四拾二点二千六百九拾六円四拾銭
 数字の誤差については、大正六年の基本金と比べると大分減っているので、何かの理由があったものと思う。
 郡予算に対する千葉町の負担額は、明治三十年が七二円二六銭二厘、三十五年が九五〇円七八銭二厘、四十年は一、六一九円三四銭六厘、大正元年が二、七三〇円、同五年二、四一一円、同九年九、三一八円と大体二〇パーセントから三〇パーセント余を負担していたことになる。
 郡制は大正十二年廃止となったが、廃止されたのは地方自治体としての郡制で、地方行政区画としての郡および、これを統轄する地方行政官としての郡長や郡役所はしばらく続いた。しかし、それも大正十五年には完全に廃止された。この年の知事元田敏夫(第一七代)は、訓令の中で郡制の歴史を次のように振りかえっている。
 顧れば、わが国の自治制が発布されてから、かれこれ四十年を迎えた。その後郡役所は指導監督上の重要機関として直接または間接的に、その任に当たり、民衆のための自治活動、思想の向上に努めてきた。しかし、自治運営に役立ったとはいえ、千葉県の実情を推し量ると必ずしも、その真価を発揮したとはいいがたく、事務の改善、事業の施設など数多くの努力が残されている。

(以下略)