地租改正は金納制を求め、自給経済から交換経済に変わり、農産物商品化の波にまきこまれた。農業の規模が小さく、消費市場との距離もあるので、どうしても流通を掌る商人勢力に従わざるをえない。土地所有権の確定は、おおむね近世の農村社会構成を継承したので、土地を持つものと、持たないものが最初から区分された。すでに備わっていた資力と役職並びに導入された新知識を利用して、時代を支えていく豪農・富農の在存が目だっていた。
官有地の払下げ、地価の低い荒地開墾などにより、強い意志と労働力の備わったものには、努力次第で中層から浮かぶものもあった。また反面には、デフレ政策、蚕業の失敗などの影響を受けたり、現金の魅力に溺れたりした末に没落し、下層に転落するものもあった。彼らは土地を失い労働者となる。しかし、明治から大正初期は、工業発達の規模が限られ、しかも低賃金であるため、没落農民にとって、農村から流出することは困難であり、土地を借り、農業にしがみつかざるをえなかった。
一方では土地を兼併し、開墾で拡張した富農は、雇用者を使い大経営をするか、土地を小作人に貸与するかして、地主生活にはいる。地主と小作人、あるいは専業農家と副業、経営規模の大小、水田単一の経営か多角化経営か、生産力の差のあるかぎり、商品経済の浸透は、農村の階層分化を促進していった。
作物商品化の時勢にあって、農業の改良、増収は大正時代に著しく進展した。しかし、農産物商品化には、いくつかの弱点が存在する。自然的条件により供給量の制約があり、価格変動に対し、生産調整の自由がきかない上、保存性、需要増などの弾力性が乏しいなどの理由で、供給過剰の傾向を見、慢性的不況を招来しつつあった。大正九年(一九二〇)に始まる、第一次大戦後の都市産業の行き悩みは、失業者の続出、需要後退として農業に波及し、いわゆる農業恐慌の時期に入った。
関東大震災による産業・交通の破壊は、農業の前途をより暗くした。震災直後流れこんできた避難民の、少なからぬ部分が農村に定住し、小作人化したと伝えられる。経済不況により、都市労働者が還流して、農村在来の純朴さが薄れ、地主と小作間の対立が尖鋭化し、争議続出の傾向が盛んとなったのは、昭和三~五年といわれる。農村の健全性が失われ、食料供給に支障が生ずる恐れもあり、農村荒廃とさえ称された。
この項では、この間の市域における解決困難な農村問題、明快な対策や、具体的な実現をみないまま、準戦時体制に引きこまれる前までの状況に中心を置いて叙述したい。