米価対策

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 米価の暴騰は地主には大きな利益をもたらしたが、余剰の乏しい小農や小作人は、窮乏に落ちこむ原因となった。この農民を救うには、生産費に基礎を置く、適正な価格を主張し、共同して投売りを防止しなければならなかった。各農会は組織を通して「その意味を了解し、義務に奉公するよう」ビラの配布、持廻り協議会で、徹底に全力を注いだ。
 大正十一年の全国大会は、十一月二十四日・二十五日の両日、東京で開催、千二百名参加、(本県より三十余名)協議題(一)として、農業者の負担軽減に関する件を上程した。これは、商工業者にくらべ、租税その他の公課が過重であり、農村有力者で都市転住を望むものが多く、農村の運営あるいは思想上、憂慮に堪えないという事情からだった。協議題(二)は、米穀法運用に関する件で、関税の増減、輸入制限を行うに、運用よろしく、時機を失せぬよう、また相当の買上げを期待する要望であった。協議題(三)は、衆議院議員選挙法別表の改正を求める件で、都市と郡部の選出数のアンバランスを是正し、制限をなくし公平にしようというものであった。これらから、温厚服従を美徳とした農民が、その生活権をまもるために団結をし、政治に圧力をかけようと、目覚めつつある姿勢を感受できる。農業資本の運用、時代に適応する農業の推進を意識し、農村精神の発揚にもとづく自覚的な農民を育て、農業政策にまで研究の対象を推進していたことがわかる。
 昭和四年一月の『愛土』誌には、県農会技師高橋深蔵が「新興農村建設への捷路」と題し、次のような論説を述べている。
 古い昔は知らず、農業の栄えたことはない。他力本願で進取改善に乏しかった。農業だけを振興させることは困難で、国民全体の自覚を基に、内国産業全体の進展が期待されねばならぬ。経営技術の向上、経済的合理性の追求による生活向上が大切、第二の産業革命とみてよい。硫酸アンモニヤは、ドイツではトン当り一〇九円、日本では一八三円。運賃二〇円を加えても五四円の差がある。これは流通組織の思惑買いのため高価になったものだ。小作争議の調停なども、単なる分配ではなく、利権問題に進んできた。要は教育の不徹底に由来するものだ。


『愛土』<千葉県農業センター蔵>

 大正十二年産業組合中央金庫が設立され農村融資にのりだし、十三年自作農創成、維持の方針が決まり、同じ年小作調停法も成立、続いて十四年には、農村振興を目ざして、下級農会に技術員を設けることが奨励された。当時千葉郡五名を含め、県内に二五名が配置された。うち半数は茂原農学校出身、安房農五、山武農四の内訳であった。郡内農民の五七パーセントは、農会の農事講習を受けており、全県の比率二五パーセントに比し、普及は著しい。技術員山沢佐十郎(都賀村出身)は次のような、農村振興意欲に燃えていた。
 誰が何といったって、直接、十分に農民と接するわれわれ技術員が無かったら、どうして健康な農村の繁栄がなるものか。農村振興の第一線に立つわれわれを考慮に入れぬ政策など、いくら農林大臣が偉くても、賛成しかねるよ。

 四民平等とはいいながらも、学歴や勤め人を偉いと思い、くわを肩にする百姓を軽視する風潮があった。興村振業の実現を助けるには、家庭生活の改善を図ることが大切となる。婦徳の涵養と知識技芸を授けて、農村中堅女性の養成を目ざし、千葉県農会立家政女学校が、昭和四年二月に誕生した。蘇我町に新校舎、全寮制の寄宿舎を完備、修業一年、一、二六〇時間の授業を行った。
 昭和六年一月、南生実農事実行組合は、次のような努力目標を具体的に揚げ、励行して困難を乗りきろうとした。
 一、農家収入の増加 イ、土地利用の集約化 ロ、販売方法の改善 ハ、余剰労力の利用 ニ、農産物の加工貯蔵 ホ、農業経営の多角化 ヘ、帳簿の記載 ト、家畜の飼育
 二、農家支出の縮少 イ、自給肥料の増加 ロ、農業用品の共同購入 ハ、部分的共同経営 ニ、肥料の共同配合と施行 ホ、畜力、機械力の利用をあげている。当時の難局を克服しようという溌溂たる意気ごみを感じるとともに、農村を救う技術的方策が網羅されていることに、感嘆の声を惜しまない。
 生実の宮本さだ、都村辺田の足立きんらは、昭和九年の春、農会事務所に集まって「家内労働の内幕を話し合う会」をもった。当時の婦女子が、農家経済の圧迫による不安、年寄りの居る難かしさで、農村を避ける風があった。俸給生活者に結婚の相手を希うものが多く、軍人、教員、会社員は可、希望しないものの首位に、高利貸、僧侶、魚屋、料理店があったという。女子青年団が映画を映写したり、運動会をやることが最大の娯(たの)しみ。疲れること、病気になることが一番辛い。仕事はつかえるし、気はせくしというわけ。元気が出るように「ニンニク」をよく食べたと苦労を語っている。
 修養の共同娯楽の費用を支弁するため、七反歩余の水田を共同耕作する誉田村高田婦人会の一七〇名余を、昭和五年三月二十日付の新聞は、県下初の目ざめた婦人会と称していた。
 昭和二年四月二十九日付、『千葉毎日紙』は農村環境の現状を訴え、社会事業の必要を唱え、帰結するところ、農民生活の向上には、経済的向上にまたねばならず、生活向上なくしては衛生状態はよくならない、思想も安定しないと結んでいる。
 第一に農村の住宅は換気よろしきにすぎ、採光はこれに反し不十分である。家族は概して多く、畳数が少なく、周囲も不衛生なものが多い。このため、呼吸器疾患、皮膚病などが甚だ多い。
 第二に食物も粗悪であって、精力の消耗を補いうるものではない。肉類には甚だ恵まれない。小学児童の弁当を調査したところ、十中八・九は梅干、または沢庵少量で、発育期に不適当なことが発見された。
 第三には衣服だが、これもまた粗悪で、衛生上不適当なものが多い。過労を余儀なくされ、このような状況にあって、農民には胃腸病患者が甚だ多かった。農民の体質低下は、能率低下につながり、経済をいよいよ窮迫させる。
 同じく『千葉毎日新聞』昭和五年三月十三日付記事に、農村疲弊の原因として、次のように説いている。
 農村青年が農事を厭い離村する傾向があるが、婦女がいたずらに享楽を夢み、農村生活を嫌忌することが遠因であろう。このため、農村女子に農村生活趣味を理解させ、皮相の都会憧憬にかからぬよう、防止に努めねばならぬ。農業生産が乏しいだけでなく、不便、無趣味なことに問題があるとした。
 都会からの還流は、農村自体の疲弊もあり、労力の捨て場扱いは、農村を無視したものとして不評であった。