さて、大正九年には、戦後恐慌によって、全国的に生産活動が縮小、停滞したのであるが、県内の従業員一〇人以上の工場についてみると、前年の八年に比し、紡織関係で五工場、主として編物工場が減少、化学部門で四工場、主として製油工場が減少、食品部門は、総数としては増加したが、澱粉工場は、七工場の減少となった。
千葉県の場合、第一次大戦の好不況の波に最も大きくもまれた製造業は、澱粉と製油であり、従来からの衰退傾向を一層助長されたのが、紡織染色部門であった。
千葉市域は、県下の澱粉と製油の中心地域であったので、その影響をまともに受けてしまったのである。
当市域の澱粉業について、大正八年を基準にして考察すると(五―五四表)、大正六年にくらべ、製造戸数は、六戸の増加であるが、生産量は、約一・五倍、生産価格は約一・八倍と急増している。トン当たり価格も約四五円高くなった。澱粉需要の増大と、それに対する各製造業者の生産拡大が、はっきりとうかがえる。
製造戸数 | 生産量 | 比率 | 生産額 | 比率 | 1トン当たり価格 | |
大正6年 | 戸 117 | トン 4,488 | 66 | 千円 877 | 55 | 円 約195 |
8 | 123 | 6,756 | 100 | 1,607 | 100 | 240 |
9 | 89 | 1,764 | 26 | 206 | 13 | 115 |
10 | 118 | 1,138 | 17 | 214 | 13 | 190 |
12 | 120 | 3,029 | 45 | 477 | 30 | 160 |
(各年次『千葉県統計書』より作成)
この澱粉景気の中で、日本橋に本社のあった、日本化学製粉(株)千葉工場が、幕張町に、大正七年九月、資本金百万円で設立された。
八年には、製造戸数一二三戸、生産量約六、七五六トン、生産額一六〇万七千円と最高に達し、一戸当たり、約五五トン、一万三千円の生産をあげた。この好景気もつかのま、早くも翌九年には、澱粉過多となり、仲買人の取り引き中止がおこり、価格が下落、そのため、澱粉製造業者は、減産、休業、倒産へとおいやられた。
九年には、製造戸数三四、前年の約四分の一も減少した。生産量も四分の一になり、生産額は八分の一と急減した。トン当たり価格は一二五円安と、半値以下となった。一戸当たり、約二〇トン、二千三百円で、生産量で、前年の四〇パーセント、生産額で一八パーセントと低下した。
東京湾沿いの製造業者にとっては、六年の大水害に続く不況で、その打撃は特に大きかった。この不況の中で、小規模な製造業者はより多く倒産し、残ったものは、生産規模の拡大を図った。
この時期に、海上郡は、澱粉の全県産量の五〇パーセント近くを生産し、澱粉製造で、首位の座を占めた。
澱粉製造と、同じような道をたどったのが、製油業である。八年の生産金額は、六年の約三倍と急増したが、翌九年には、八年の約半分余りに減少した。製油業の場合は、製油戸数が少なく、好況では、主に生産規模の拡大を図り、製油戸数の増減は、少なかった。
好況の七年七月、日本油脂(株)が、寒川に落花生を原料とする、食用油工場を設立した。がしかし、不況の中で破産してしまった。明治三十四年創業の蘇我町の今井製油は、よく耐えて、胡麻油製造を継続した。原料の胡麻は、満洲から輸入したものであった。