澱粉工業

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 なお、この間の大正六年十月一日には、蘇我町・千葉町の東京湾沿いの澱粉製造業者は高潮によって、大損害をうけた。それは、簡単な雨よけの中で、木製の「乾燥わく」に入れた乾燥中の澱粉が、水浸しとなったり、流失してしまったりしたのである。ただ、この被害が教訓となって、乾燥法に工夫がされた。すなわち、本格的な二階建ての乾燥小屋を作り、「乾燥わく」を、その二階において乾燥させることにしたのである。この方法によると、通風もよく、短期間で乾燥でき、また、ほこりの混入も少なく、良質の澱粉が作れるようになったのであった。大正初期の澱粉製造についてみると、甘しょ澱粉の製造技術が確立し、澱粉分離機と共に各地に普及した。他県でも澱粉製造されるようになり、県内では海上郡や香取郡で成立、発展した。
 さて、大正九年には、戦後恐慌によって、全国的に生産活動が縮小、停滞したのであるが、県内の従業員一〇人以上の工場についてみると、前年の八年に比し、紡織関係で五工場、主として編物工場が減少、化学部門で四工場、主として製油工場が減少、食品部門は、総数としては増加したが、澱粉工場は、七工場の減少となった。
 千葉県の場合、第一次大戦の好不況の波に最も大きくもまれた製造業は、澱粉と製油であり、従来からの衰退傾向を一層助長されたのが、紡織染色部門であった。
 千葉市域は、県下の澱粉と製油の中心地域であったので、その影響をまともに受けてしまったのである。
 当市域の澱粉業について、大正八年を基準にして考察すると(五―五四表)、大正六年にくらべ、製造戸数は、六戸の増加であるが、生産量は、約一・五倍、生産価格は約一・八倍と急増している。トン当たり価格も約四五円高くなった。澱粉需要の増大と、それに対する各製造業者の生産拡大が、はっきりとうかがえる。
5―54表 千葉市域における澱粉生産量,生産額及び比率
製造戸数生産量比率生産額比率1トン当たり価格
大正6年
117
トン
4,488
66千円
877
55
約195
81236,7561001,607100240
9891,7642620613115
101181,1381721413190
121203,0294547730160

(各年次『千葉県統計書』より作成)


 この澱粉景気の中で、日本橋に本社のあった、日本化学製粉(株)千葉工場が、幕張町に、大正七年九月、資本金百万円で設立された。
 八年には、製造戸数一二三戸、生産量約六、七五六トン、生産額一六〇万七千円と最高に達し、一戸当たり、約五五トン、一万三千円の生産をあげた。この好景気もつかのま、早くも翌九年には、澱粉過多となり、仲買人の取り引き中止がおこり、価格が下落、そのため、澱粉製造業者は、減産、休業、倒産へとおいやられた。
 九年には、製造戸数三四、前年の約四分の一も減少した。生産量も四分の一になり、生産額は八分の一と急減した。トン当たり価格は一二五円安と、半値以下となった。一戸当たり、約二〇トン、二千三百円で、生産量で、前年の四〇パーセント、生産額で一八パーセントと低下した。
 東京湾沿いの製造業者にとっては、六年の大水害に続く不況で、その打撃は特に大きかった。この不況の中で、小規模な製造業者はより多く倒産し、残ったものは、生産規模の拡大を図った。
 この時期に、海上郡は、澱粉の全県産量の五〇パーセント近くを生産し、澱粉製造で、首位の座を占めた。
 澱粉製造と、同じような道をたどったのが、製油業である。八年の生産金額は、六年の約三倍と急増したが、翌九年には、八年の約半分余りに減少した。製油業の場合は、製油戸数が少なく、好況では、主に生産規模の拡大を図り、製油戸数の増減は、少なかった。
 好況の七年七月、日本油脂(株)が、寒川に落花生を原料とする、食用油工場を設立した。がしかし、不況の中で破産してしまった。明治三十四年創業の蘇我町の今井製油は、よく耐えて、胡麻油製造を継続した。原料の胡麻は、満洲から輸入したものであった。