大正後期

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 大正九年、千葉市域には、従業員五人以上の工場は、七四工場であった(五―五五表参照)。これは、全県工場数の約一一パーセントであった。動力を備えていた工場は、六一で、市域工場の八二パーセントであり、一〇人以上従業員の工場は二三で、三一パーセントであった。
5―55表 千葉市域における従業員5人以上の工場数(大正9年)
有動力無動力内容従業員10人以上
紡織617組物編物3,撚糸23
機械器具325飛行機製造2,機械器具24
化学628製紙4,製油2,ゴム26
食品36440澱粉33,落花生加工2,製氷15
印刷3032
その他639製材62
電気0111
ガス1010
総計61137423

(『千葉県統計書』より作成)


 工場の内容は、食品関係の四〇工場を第一に、化学八、紡織七、機械器具五が、主なものである。
 食品関係では、四〇工場中、三三は、澱粉工場で、市域全工場の四五パーセントにも達した。
 製氷が一工場みられたが、これは、県下唯一であった。
 化学部門は、製紙・製油・ゴム製品で、製紙では、当地区が県下の中心となり、蘇我町の今井、小泉両製紙工場で、年間一〇万円余の生産をあげた。千葉町新宿地区には、明治四十三年五月創業の笹本製紙があった。ゴム製品工場は、無動力で、新宿地区にあった。
 紡織部門の中心は、組紐工場で、最盛時には、一〇工場あったが、九年には、三工場になってしまった。
 機械器具製造業は、明治末期までは、安房、海上郡などで、船舶・農漁具関係の製造が中心であったが、第一次大戦を契機として、東葛・千葉郡にも成立した。
 当地区での特色は、飛行機製造と、度量衡製造で、飛行機製造の一は、大正四年、稲毛地区に設立された伊藤飛行機研究所で、手作りで機体製造を行った。ここで製作された恵美一号機は、稲毛より、東京湾を横断して、東京上空への往復飛行に成功した。それは、東京上空を飛行した民間機の第一号であった。度量衡製造工場は、新町の大野度量衡で、県下唯一の工場であった。

恵美2号機(右)<伊藤恵美子氏提供>

 大正九年以降、慢性的不況となり、産業界は全般的な停滞状態になってしまった。そのような折の十二年九月、関東大震災が発生し、東京を中心に、大損害をこうむった。この震災を契機に、工場の地方分散が行われ、本県にも、市川付近を中心として、東京から、工場の移転がみられた。