当市域への移転の代表は、澱粉糖メーカーの雄、参松工業(株)である。
同社は、大正五年、東京深川平井町に工場を建設、わが国最初の酸糖化法による水飴・ぶどう糖の生産を開始した。震災で工場を焼失し、工場再建用地を物色していたが、当時の神田千葉市長の斡旋(アッセン)と、横山社長の決断で、原料の甘しょが入手しやすい、千葉市新宿町に工場を建設した(千葉町は、大正十年、千葉市となった。)。十三年五月には、製造を開始した。当時の新宿町あたりは、民家は海岸の県道沿いの部落のほかは、ほとんどなく畑地だったという。その後、同社は、結晶ぶどう糖の生産を開始するなど、着実な発展をとげたが、廃液や、騒音、地下水汲み上げによる付近井戸水の減少などによって、住民との間に、トラブルの発生もみられた。太平洋戦争中は、原料の澱粉が入手難となり、医療用のぶどう糖製造を行うだけとなった。昭和二十年七月、戦災で、工場の大半を失ったが、戦後再建、わが国初の粉末水飴の製造に成功した。昭和四十四年七月、食品コンビナート地域に移転するまで、新宿町で生産を続けた。
参松工業の立地によって、その関連産業が発生したが、その代表は、大正十二年六月、新宿町に創業した(株)向後鉄工所である。同鉄工所は、参松工業の専従工場となり、製飴機の製造や、修理を行い、また、全国的にも、製飴機の販売を行った。