大正末期

326 ~ 327 / 492ページ
 大正十一~二年ころに立地した代表的企業は、両総綿業(株)と、松本米穀製粉(株)である。両総綿業は、大正十一年、寒川新田(現新田町)に創設、上総木綿の復興を企てた。しかし、大企業の製品に圧倒され、薬用ガーゼの製造に転向した。その後、工場拡張のため、穴川町に移転した。松本米穀製粉(株)は、新町に、資本金三三〇万円で、大正十二年二月に設立されたが経営不振となり、日東製粉(株)千葉工場となり、第二次大戦前の当市域工場中、最大の生産額をほこった。
 大正十一年には、県下の総工場数が公にされたが、それによれば、千葉県の工場総数は二、四一〇であった。動力を備える工場は二、一一一で八八パーセントに達した。
 工場内容は、食品関係が一、七五五工場、紡織関係は、二〇九工場で、この二部門で、工場全体の八一パーセントを占めた。一方、化学関係七四工場、機械器具製造六五工場で、重化学部門は、着実に発展はしたものの、全体のわずか六パーセント程度であった。
 千葉市域の工場総数は、三一八、そのうち無動力は一四工場で、工場の動力化は、一応完了したと考えられる。
 工場の内容は、食品が八〇パーセントで二五七工場であった。一方、機械器具製造はわずか六工場しかなかった。
 食品では、精穀一一七、澱粉九四、紡織では、製綿一〇、化学では製紙四、製油二、機械器具では、金属製品三、機械製造二、印刷は六、雑工業では、生繭乾燥七、被服縫製三が主なものであった。従業員二〇人以上の工場は、製紙度量衡、生繭乾燥などであり、一〇人以上は、ガス・電気・印刷・ブラシ製造・製氷・撚糸(ねんし)の各工場であった。大正時代のわが市域の工場は動力化は進んだが、その規模は零細であった。
 内容的には、重化学工業部門も着実に発展はしたが、工業の中心はあくまでも食品部門であった。
 澱粉のほか、製氷・菓子・製粉・落花生加工の各工場が成立した。メリヤス編や被服縫製も重要な製造業となり、製材、建具製造も目だった。印刷部門は県下の中心的地位を持続した。