千葉町商圏の拡大と購買力の変化

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 千葉町の商圏は中継商業の商圏が明治来の鉄道の開通によって失われ、小売商圏が主となった。当時の千葉町の小売商圏は、千葉町をはじめ、まわりの都・都賀・千城・犢橋・更科・白井などの村々や誉田・四街道・検見川・幕張までひろがっていた。千葉町の商圏の西には船橋町の商圏があって幕張で接していた。北には佐倉町の商圏があり、四街道が境であった。東には東金町の商圏があり、南には五井町の商圏があった。千葉町の商圏はほぼ千葉県の西北部をのぞく全域にひろがり、現在の千葉市の市域ぐらいであった。大正十五年刊行の『千葉郡誌』にこの地方の商業地について述べている。
 現今、商業中心地は千葉町にして、本県の要衝の地をしめ、逐年殷盛におもむきつつあり。検見川町、幕張町、津田沼町、蘇我町、生実浜野村等沿海各町村及大和田町はいずれも農漁村の小市街地にして、付近の部落を顧客とするにすぎず。

 これらの小市街の商人は「京浜の都市に近接せるをもって、直接に京浜より商品を仕入れ、これを小市街に供給する」と述べている。当時の千葉郡は東京の卸売商圏の中にあって、千葉町の卸売商圏にくみこまれていなかった。千葉町も東京の卸売商圏の中にあったが、小市街地とその付近の部落を除いた千葉郡全域を小売商圏としていた。大正末―昭和初期にかけて、千葉市の卸売商圏が千葉郡一帯にひろがり、またこれらの小市街の買廻り品の小売商圏を拡大していった。
 第一次大戦前後の千葉町の商圏人口は、戸数一万一二一一戸、人口五万五三七七人であり、買廻り品商圏は、商圏内の戸口が、一万六四六八戸、八万九〇四六人であった。この商圏の戸口数は千葉郡全体に対して、人口は七八パーセント、戸数は九〇パーセントをしめていた。大正十年の千葉市の産業別戸数は、商業が約四〇パーセントで圧倒的に多く、工業・公務・自由業・その他の職業・無職(多くは退職した恩給生活者)などの給与所得者というサラリーマンが五二パーセントをしめていた。そして農漁業は九パーセントであった。千葉市の商業はサラリーマンと商業者の家庭を対象として営まなければならなかった。サラリーマンは公務・自由業や軍人・会社員などで給与はほぼ一定であったから、物価が上がると購買力は減少した。また工業は中小企業が多く、第一次大戦の好況によって雨後のたけのこのように続出した工場であった。戦後の不況に経営困難となり勝ちで購買力は小さかった。しかし千葉市の商圏全体をみれば、商業にとって農・漁業は全消費者の戸数の四八パーセントをしめるほどであった。したがって商業の好況は農・林・水産物の生産額の増減が、購買力の大小とつながり、千葉市商業に大きな影響を与えた。農林水産物の産額は大正元年から同八年まで激増していくが、大正九年から主力となる農産物の産額は減少している。これらの生産額の増加は、生産量があまり増加しなかったが、物価が上がったので金額が多くなっていた。また米作や畑作の豊凶や外国貿易の不振による養蚕の不況なども影響していた。農漁業者の購買力は物価の上下のほかに天候による豊凶によっても大きく変化した。大正中期における農家の平均粗収入は、年一、二四八円、所得は年六二四円、月額五二円(五―五八表)、千葉郡の農家の日雇が一日八〇銭ないし一円(『千葉県史大正昭和篇』)、工業労働者は最高三円、平均二円、昭和三年であるが、県庁の雇員の年給与四七〇円、判任官待遇は年六百円、千葉県知事が五千二百円であった。このころの物価の上がりかたは激しく、大正元年の千葉町の白米一升は二二銭であったが、大正九年には五六銭となった。富裕農は高米価で収入が多くなったが、零細農は外米も買求められず、かぼちゃやさつまいもで飢をしのいだ。第一次大戦後の一時的な好況をすぎて不況時代に入ると、商圏内の人々の購買力は激減して、商業は不振となり、商店は年内売上高が減少して不景気のどん底に沈んでいった。
5―56表 千葉町の商圏人口(大正6年)
町村戸数現住人口
商圏(最寄り品・買廻り品)千葉町6,32534,822
椎名村3292,164
白井村6204,093
更科村5713,779
千城村5773,671
都村6654,139
都賀村7714,372
犢橋村6144,032
誉田村7394,305
11,21165,377
商圏(買廻り品)四街道2,47413,425
蘇我町7205,279
検見川町1,1138.143
幕張町9506,822
5,25733,669
総計16,46899,046

四街道は旭村,千代田村,志津村をふくむ。


5―57表 産業別(本業)戸数
千葉郡千葉市
年数
業種    
大正5年大正7年大正9年(大正10年)
農業
7,964

8,415

8,618

(46.0)

414

(5.8)
漁業326329445(2.3)221(3.1)
工業1,1761,2061,256(6.7)756(10.5)
商業3,9404,0624,366(23.3)2,867(39.9)
交通業782777862(4.5)367(5.1)
公務・自由業1,8691,9511,867(10.0)1,783(24.8)
その他の職業1,5291,0931,195(6.4)399(5.5)
無職555554132(0.8)382(5.3)
18,14118,38718,741(100.0)7,189(100.0)

5―58表 千葉郡の産業別の生産額
年度
産物 
大正元年大正6年大正7年大正8年大正9年
農産物
3,912,371

4,683,433

7,106,637

10,257,424

9,786,887
蚕糸類110,764241,335287,377396,968182,294
畜産物158,814248,090293,492450,980789,114
林産物220,751266,736368,130484,811534,734
水産物208,578205,322340,056437,581766,979
工産物1,167,5852,261,9462,204,9712,857,6941,688,253
5,778,8457,906,86210,600,66314,885,45813,748,261

 大正期の商業は一般に不景気の中からぬけだせないが、購買力は季節的に増加して一時的に商店街に活気を与えた。それは商圏の消費者という固定客によるものではなく、商圏外から流れこむ流動客の購買力による売上高の増加である。大正期から昭和にかけて、千葉は県内の繭の集散地であった。長野県の生糸業者が千葉市に繭の乾燥場をつくり、県内の繭を集めて乾燥して転送した。繭の乾燥場は九カ所、大正十四年には六五万貫(県総額の約六〇パーセント)を集荷している。この時期には製糸業者が続々と千葉市に入りこみ、年間のうちでもっとも市街商店街と料理店街が繁昌した。また七、八月になると東京からの海水浴客が稲毛から出洲埋立地の海岸一帯に、日帰り客から滞在客まで一ぱいになった。出洲の埋立地には「海の家」が立ちならんで満員であった。十一月には鉄道連隊やその他の部隊の除隊があり、十二月には入隊があり、除隊兵・入営兵の送迎人が県内・県外から集まり、旅館や商店街がにぎわった。これらの流動客の増加が、不景気になやむ商店街の起死回生薬であった。