不況下における商店街

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 第一次大戦後の不況は大正九年からはじまり、大正十二年の関東大震災の被害でますます深刻になった。この不景気は昭和初期からはじまる世界的恐慌とつながっていった。千葉市の商圏内の全産業は不況におちいり、各家庭は所得がすくなくなり、購買力が低下し、商店街は不景気になった。大正十三年の年の暮の『朝日新聞』を開くと、千葉市の商店街の不景気の様子を報道している。商店街では立看板に「突撃的投売り」とか「破壊的売り出し」というように筆太に書いてだしていた。サラリーマンと農家を相手とする商店の営業は不振であった。呉服屋では日用品のメリヤス類は売れるが、高価な呉服は売行がなく、サラリーマン相手の洋服屋には注文がまれにしかなかった。飲食料品店は年の暮・正月をひかえて、市の商業倶楽部が主催した物産展覧会の即売会は三カ月もつづけて市価より三割安としても買手は手控え気味で贈答品は売行きが悪いとのべている。また高利貸は、百円、二百円の小金を日歩二〇~三〇銭の高利で貸していた。大口の貸出をする銀行は放漫な対人信用の貸出を警戒して対物信用の一点ばりとした。それで地方金融は逼迫して、市内の有力商店が近在の取引店をまわって四五円の掛金を集めようとしたら一円の勘定も集まらなかったという。大正十三年の暮には今年は不景気のどん底で来年は好転するだろうと新聞は予測していた。
 このような商業の不況は船橋でも市川でも同じだった。船橋では中心商店街の本町通りでも、店をしめて大戸を下したり、貸家札をはった商店があった。市内のサラリーマンや労働者は購買力が減じ、漁業者に依存している船橋商店街は漁獲がなく出稼ぎにでかけたので火の消えた様なさびれかたになった。料理店や花柳界はにぎやかであるが、その客は東京方面からきた人々であった。市川では当時の新聞記事に「物価が著しく高くなり、奸商が全町にはびこる、漸次東京化してさびれる市川」と見出しをつけている。関東大震災の後に東京から移住者が増えて物価が高くなり、下級官吏や労働者が物価の安い田舎の貸家に移転する者が増加してきたと説明している。このように各地の特殊事情もあるが、商店街の不景気は年ましに深刻化していた。