町政の動き

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 明治末期の町の財政はぼう張の一途であった。三十年の予算が五、二九六円八三銭七厘であったものが四十年には約十倍の四万一〇八七円二九銭三厘という数字にふくれている。三十七、八年の日露戦争による好況は終止符が打たれていたが、戦争協力の打撃は大きかった。それだけに国内は恐慌期に入っていたので予算のぼう張は一種の危険状態であったが、町の施策は教育費など増大するばかりであった。
 四十年以後の予算は次のとおりである(『千葉市誌』『議会議事録』)。
 ▽四十年   四万一〇八七円二九銭三厘
 ▽四十一年  四万六二一八円五九銭九厘
 ▽四十二年  七万五四五五円四三銭三厘
 ▽四十三年  五万八八六九円三一銭二厘
 ▽四十四年  七万四五七九円二四銭五厘
 ▽大正元年  七万四五一九円〇三銭
 ▽同 二年  七万〇五二五円八二銭
 ▽同 三年  九万三九五二円
 ▽同 四年  八万七一六四円
 ▽同 五年  八万二五八六円
 ▽同 六年  七万九四六〇円
 ▽同 七年 一三万一七四八円
 ▽同 八年 一〇万一九六一円
 こうした予算(四十三年は当初予算、それ以外は決算額)状況に対し、当時町の郡費負担状況は次のとおりである(『千葉郡誌』)。
 ▽明治四十年  一、六一九円三四銭六厘
 ▽〃 四十一年 二、〇五九円〇七銭九厘
 ▽〃 四十二年 一、七〇〇円四〇銭七厘
 ▽〃 四十三年 一、八三七円七三銭三厘
 ▽〃 四十四年 二、四七三円六六銭二厘
 ▽大正元年   二、七三〇円
 ▽〃 二年   二、三六七円
 ▽〃 三年   二、二四〇円
 ▽〃 四年   二、六八五円
 ▽〃 五年   二、四一一円
 ▽〃 六年   二、六五〇円
 ▽〃 七年   三、〇五九円
 ▽〃 八年   四、〇八二円
 ▽〃 九年   九、三一八円
 四十一年二月十二日には寒川地区から五田保にわたって大火災があり、三八〇戸を焼失、また、その前年に登戸地区の火災で四五戸を焼失するなど大火が相次ぎ町では対策に苦心の結果、四十一年十一月に全町内に防火組合をつくった。四十二年には亥鼻公園を作ることになり、用地を買収する一方、地主に土地の寄付を要請している。寒川から五田保の火災は焼失家屋三八〇戸で損害一〇万八四七五円、焼死傷者多数と記録されている。
 四十年前後の千葉町の産業界は不振であったため、前記のように予算状況はぼう張の一途であったのに反し、納税成績があがらなかったので町財政は苦しかった。特に営業税、所得税の課税が少なかったので、俸給生活者に対する戸数割の賦課が重課となり、俸給生活者の不平不満が強かった。このため三十八年七月に鈴木太郎吉町長、三十九年四月には松山文治町長が辞任、三十九年六月には加藤久太郎町長が就任した。
 加藤町長は四十一年八月に官公庁、学校、銀行、会社、各種団体の代表および各町内の有志を集めて財政対策や税金対策を協議するための協議会を開き、各方面の意見をきいた。しかし議会方面から異論が出されたので、第一回の会合を開いただけで取りやめとなり、代わって課税標準調査会を設けた。
 その結果、戸数割に代わって家屋税新設の結論となったが、その後、この家屋税新設に対しては町会筋などから強い反対論が持ち上がり町政大混乱のきっかけをつくった。
 この調査会は四十一年の十月十九日の町会で次の一〇人を委員に選んだ。
 杉山弥太郎、遠山重義、桂田広忠、石橋茂三郎、杉田卯三郎、松山暢
 畑野亀次郎、宇佐美佑伸、楠原繁次郎、太田茂。
 同委員会は毎週土曜日に開き、半年で調査を終えている。この報告をもとに戸数割賦課の標準とした。四十三年に入るとともに、千葉町会は大もめにもめた。
 まず議会側は、町役場が予算の執行に当たって費目の流用をしているとして追及、川瀬渡助役ら幹部の責任問題に発展していった。町会は和田秀之助以下七人の調査委員を選んで役場内の金銭出納の実態にメスを加えた。その結果、庁内の乱脈ぶりが相ついで暴露されたため、町民から非難ゴウゴウとなり、ついには税金不納の動きが続出したようで、戸数割の滞納が数多かった。
 このままでは事態を収拾することは困難であるとして、石橋町会議員は「役場吏員の総辞職を勧告する建議案」を提出した。この建議案は満場一致可決されてしまったが、全国の市町村を通じて未曽有の大事件であった。
 これについて加藤久太郎町長は別に異議を申し立てなかった。ために町役場の書記や雇員らは総辞職することになり、町政は完全なマヒ状態となり、行政はストップの形となった。全員の辞表を受けてとった加藤町長は、町会と協議のすえ、職員の中から疑惑のない者を再任命し、事態を収拾した。おそらく千葉町にとって最初で最後の汚点であろう。全員辞職などということは議決機関が執行機関に介入した限度を超えたものであろうが、行政不備時代としてやむを得なかったものと思う。
 かくて加藤町長は不始末問題も一段落したので、就任いらい五年余にわたった町長を辞職することを決意、四十四年八月二十七日に辞任した。後任の選任もまたまた紛糾し、簡単には決まらず、同年の十二月七日ようやく遠山重義が六代目町長に選ばれた。遠山町長就任後の四十五年の通常町会で町役場新築案が正式に決まり、建設に着手したことは前述のとおりである。

大正2年新築の町役場

 大正二年二月の町会になって松山暢議員から四十五年に設置された市制施行調査委員会廃止の議がされた。これは市制施行は時期尚早というもので、これを契機に一部に盛り上がりをみせた市制問題は沙汰やみとなった。時期尚早論は「市制施行の項」の中にもあるとおり、財政問題が主因であった。
 遠山町長時代は、千葉町政の安定期で、同町長の施策は可もなければ不可もないといった形であったので安定していたようだ。遠山町長は一期を終えて辞任、後任に和田秀之助が選ばれた。大正六年四月であった。
 市制問題が財政事情から沙汰やみになったことは前述のとおりであるが、そのおもなものは戸数割税金の欠陥にあった。戸数割は、その人の所得に基づいて課税するものだが、町の税務事務が確立していなかったので、適確に把握できなかった。しかも人口の移動が盛んに行われたので、当初に賦課しても、徴税の時期には転居してしまい、滞納整理に苦労する有様であった。
 このため町当局は大正六年の十一月に「家屋税施行の得失を調査すべき調査委員設置の件」を上程し可決された。それによって一〇名の調査委員を委嘱した。しかし家屋税になると家屋所有者に課税が偏重するという強い反対意見が出てなかなか調査に入れなかった。実際に活動に入ったのは翌七年五月からで、小沢勝助役と斎藤三五郎、遠山重義、武藤切次郎の三町議が高崎、八王子、小田原の三か所を視察して報告書を提出、これにもとづいて八年二月十二日の町会は、「県税戸数割を家屋税に改む」の諮問案を僅か一名の差で可決し、ようやく家屋税の調査事務を開始した。
 しかも、この問題は改正案が六月に提案されていらい、七、八月と三カ月も紛糾している。その間反対陳情書や、市川貞吉ら一〇人からの建議書、更にその後具体的例をあげて課税の不公平を追及している。
 このほか明治四十年十一月町会各区に衛生組合が結成されたほか、四十二年十一月には全町に五人組を組織、これに付随して納税組合を設けるなど滞納整理に努力している。また四十二年に千葉税務署の新庁舎が市役所隣り(現開発庁舎のところ)に完成している(『千葉街案内記』)。また、四十四年六月と七月及び大正六年に暴風雨に襲われ、水死者を多数出すなど大きな被害をうけた。これについて二回とも見舞金として天皇陛下からご下賜金が千葉町に渡されている。

明治42年完成の千葉税務署

 大正三年十一月、陸軍の演習を視察するため皇太子殿下が千葉町にこられている。旧千葉駅前から京成千葉駅(中央公園)へ通ずる道路ができたのが、四十四年十二月であり、臼井荘一が公会堂を買収して新興館としたのは大正八年である。
 そのほか大正五年に畜産試験場(現青葉町)の設置が決まっている。これは同年四月六日農商務省告示第五十六号をもって決められたものであるが、これは畜産試験場東京支場を廃止して千葉町に移してきたもので、実際の移転は大正六年六月一日(『千葉郡誌』)である。
 設置当時は都村におかれているが、面積五十四町歩(一六万坪、約五二万九千平方メートル)で、建物三六棟、場員は技師九人、技手一一人、属四人、雇員五〇人、傭人八一人等の計一六三人という大世帯であった。
 そのほか特徴的なことをあげると、町医、校医の交代のことが四十四年に町会で問題になっているし、雇員の月給減額と教師の俸給の低さが論議されている。雇員は一四円五〇銭を一四円に下げるもの。教師の方は教室数が減るので、その分で安い俸給をカバーしたらという提案が行われている。しかし、これについては異論も出て、結局カバーする提案は否決となり、雇員の減俸は原案通り可決されている。
 また行路病人が多かったとみえて、この取り扱いが町会で質疑が展開されている。当時行路病人一人一カ月分の費用として五〇銭余かかっている。内わけは食費一九銭五厘、薬価五銭、宿泊費一七銭五厘、寝具三銭、石油二銭、漉替紙三銭五厘となっている。