第二項 市制施行

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 大正十年一月一日、千葉市は待望の市制をしいた。当時の新聞をみると、わきたつような喜びであった。
 市長臨時代理に千葉町時代の町長であった神田清治がなり、助役臨時代理に小沢勝を、収入役臨時代理に吉田吉太郎がなり新しいスタートを切った。
 このときの折原巳一郎知事からの公文書をみると
 
 達第一号
 千葉町ヲ廃シ千葉市ヲ置クルニ付該町有財産(一切ノ権利義務)ハ千葉町会ノ意見ヲ徴シ千葉県参事会ノ議決ヲ経内務大臣ノ許可ヲ得テ千葉市ニ帰属セシム
  大正十年一月一日
                  千葉県知事 折原巳一郎 印
 
                               千葉市
 大正十年一月一日付千議第一号申請市役所位置ヲ定ムルノ件左ノ通決定ス
                    千葉県知事 折原巳一郎 印
    記
 一、千葉市役所
                         九百八拾参番
                   千葉市寒川 九百八拾四番 合併
                         九百八拾五番

となっている。その後三月七日に市会議員の選挙を行った(氏名は第三項市の組織と市議会の方に掲載)選挙後の初市会で市長、助役、収入役はいずれも臨時代理者が承認され就任したことになっているが、知事の承認が若干遅れたようである。それというのは、四月の各種文書をみると市長臨時代理と書かれたものがかなりあるからである。
 市制施行当時の市勢は『千葉市誌』及び市の統計資料によると、
 一、土地面積 三一三万七三五〇坪(一五・二平方キロ)
 一、戸数   六、九一八戸
 一、人口   三万三八八七
 一、土地
  民有地 八八一町七反一畝五歩
  官有地 二二町七反四畝二五歩
  これは道路、水路、海岸砂地、溜池、土揚場、物揚場、荒蕪地、社地、寺地など
  官用地 一一三町八反五畝二歩
   (司法、逓信、文部、陸軍、鉄道、農商務関係の官舎用地など)
  県有地 一九町八畝二九歩
   (県庁、警察、師範、中学、女子師範、高等女学校用地)
  市有地 四町六反七畝二五歩
   (小学校、公園、隔離病舎)
  免租地 三町七反一畝六歩(墓地)
   (一町=三、〇〇〇坪=九、九〇〇平方メートル)
 民有地の内わけ
  宅地 五一万〇一一五坪一一勺
  田  二〇六町六反四畝二歩
  池沼 二反歩
  山林 五〇町八反九畝二六歩
  原野 四町八反二畝一五歩
  雑  一反一歩
 
 ▽職業別戸数
  自由業、俸給生活者等  一、九一三戸
  営業          二、七二四戸
  農業            四二一戸
  漁業            二三一戸
  労力業           五三六戸
  不定業           六四四戸
 ▽教育状況
  尋常高等小学校    一
   高等科       五学級
   尋常科      二一学級 別科二
  尋常小学校      四校四五学級
  商業補習学校     一
  就学児童       四、三七三人
  未就学児童         二九人
 ▽市役所吏員数
  市長、助役、収入役各一、
  書記・書記補二六、技手一、
  汚物掃除員四、事務員二、     計 三六
となっているが、書記・書記補などの定員については、どうも明瞭でない。ということは当時の「千葉市告示第九号、大正十年一月一日の有給吏員定数」では二五名とはっきりかかれているが、当初予算をみると、二六名分計上されているので、当初は二五名であったものが、発足直後一名ふやすことの含みがあったのではないかと思う。
 有給吏員とは書記・書記補、技手をさすもので、有給吏員定数規程には前記の三者が有給と定められている。しかも同年四月には、「市会議案第三号」で定数を二五名から二七名に改める議案が提案され、可決されている。そのほか給仕、使丁が若干名いた。
 また、この有給吏員規程は翌十一年の四月一日には、二八名に改正されているが、二八名は書記・書記補だけで、ほかに技手八名の給料が十一年当初予算に計上されている。