市制祝賀

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 市制施行とともに、市では各界の有力者を網羅して祝賀協賛会(会長紅谷四郎平)を組織して祝賀行事に着手した。その模様は当時の『千葉庶民新報』の報道記事をみれば、よくわかるので左に掲げるが五月二十二、三日の両日にわたって盛大に行われた。夜はちょうちん行列まで行われており、大へんな喜びようであった。
 ▽『千葉庶民新報』の記事
 千葉市制祝典は去日二十二日挙行、市内の装飾等は前号所報の通り(筆者注=駅前にアーチなど市制祝賀の飾りつけが行なわれた)なり、式は十一時から武徳殿に於て挙行、田村議員の挙式の挨拶につぎ神田市長の式辞、内務大臣代理塚本地方局長、折原知事の告辞、神谷議長、紅谷協賛会長、松野県会副議長、川崎宇都宮市長等の祝辞あり、正午式を終り、来賓二百五十余名、協賛会員二百余名は案内されて大天幕張りの立食場に至り、紅谷会長の挨拶にて宴を開き、村岡歩兵学校長の発声にて千葉市の万歳を唱へ、直ちに模擬店は開かれ余興の見物に始まる。午後一時散会せり。今日の盛儀を見んとて遠近よりの見物人は約八万人に達し、千葉市空前の殷賑を呈せり、夜は提灯行列にて全市火の海と化し美観此上なかりき、翌二十三日は雨天のため余興はお流れとなれり。
 ▽神田市長の式辞 千葉市制施行祝賀会を開くに当り内務大臣代理塚本地方局長閣下並に朝野貴賓の臨席を辱ふしたるは本市の光栄として感佩措かざる所なり。千葉は海陸形勝の地在昔豪族千葉氏の築きて威武を耀せし所、当年将士の第宅、商売の店舗櫛比繁栄関東唯一の城市たりし。権勢の集団は久しからず、後千葉氏の凋落と共に衰頽し、繞に瀕海佃漁の一寒村として存するに過ぎず、然るに聖代文明の恵沢は永く此の枢要の地寂寥し了せしめず、置県以来機運勃興諸官衙学校及び病院の設け、交通々信の機関が備り、戸口日に殖し、商業月に盛ん、自治の根柢、漸く固く、特に近時町勢荐りに進み遂に市制を施くの盛況に達したり。市民輯睦協同事に当り経営宜しを得は事業は興隆し、商業は振張し繁栄富庶、千葉氏当時の殷賑を凌賀するに至らん、自今大方の啓沃と市民の切偲とに依り、清治等至誠創始の事に任じ、至誠不息、施設を全ふし、実績を煕め以て国家の進運を扶持し、自治の精華を顕揚せんことを庶幾ふ
    大正十年五月二十二日
                       千葉市長 神田清治

とある、難解なところもあるが、大方の理解をえられると思うので、現代文に書き改めることは省略する。
 祝賀会の立食場は県庁裏の広場にテントを張って行ったもので、武徳殿の前あたり(写真)になっている。千葉市の人口が三万余であるにも拘らず八万人も押しかけたというし、夜のちょうちん行列では「全市火の海と化し」と報道しているところをみると、真に市制を祝う盛況さがわかる。

市制祝賀式典会場(旧県庁裏の広場)


市制祝賀アーチ


祝市制の新聞 (『千葉庶民新報』)

 市制実施とともに一月一日付けで公告条例、収入証紙条例、消防組合規程、有給吏員給与規程、同旅費額及支給規程、手数料条例、徴収督促条例、物件の売買貸借及請負に関する規程、屠場使用条例、伝染病患者食費薬価徴収規程、尋常小学校・高等小学校授業料徴収規程、有給職員の退穏料、同退職給与金死亡給与金条例などの実施を決めている。これについては、
 大正十年一月一日附千議第二号申請条例諸規程設定ノ件左ノ通決定ス
                    千葉県知事 折原巳一郎 印
とあって、以上の条例が書かれている。この条例も五月一日には、早くも条例改正が行われ、料金が一斉に値上げされている。納税、兵役、資産、身分に関するもの、その他公課に関する証明書などすべてにわたって従来の一通当たり一〇銭が一五銭に値上げされている。また屠場使用条例も五月一日から改められ、牛一頭につき一円五〇銭、馬同じく一円三〇銭、豚は八〇銭となるなど、市になるとともに、ありとあらゆる面の改正、整備が行われている。
 市の職員の俸給も市制とともに新たに決められている。
 有給吏員は一級から八級までに分けられ、しかも上、下の二種類に分かれていた。
 
   市の有給吏員の給与改正月(五月一日)
     一級      二級      三級      四級
 上  百四十円    百二十円      百円    八十五円
 下  百三十円     百十円     九十円     八十円
     五級      六級      七級      八級
 上  七十五円    六十五円    五十五円    四十五円
 下   七十円     六十円     五十円     四十円

(『市会議事録』)


 これによって市長の給与も改められているが、町時代より職員と同じくアップされている。
 市長  三千円以上三千五百円以下
 助役  九百円以上二千円以下
 収入役 七百円以上千五百円以下
 また「同年四月一日から日額手当を加う」と市議会の議事録に出ているが、それによると次のとおりで、この日額手当は出張手当のことである。
        普通     特別
 市長     一円     一円五十銭
 助役     七十銭    一円二十銭
 収入役    七十銭    一円二十銭
 書記・書記補
 技手嘱託員 二十五銭      六十銭
 雇・傭員   二十銭      五十銭
 以上の給与、日額手当は大正十年五月一日からであるが、それより先の市制発足当時は、
 達第二号
  有給吏員臨時代理給料旅費額及其ノ支給方法
として規定が決められている。それによると、
    第一章 給料
 市長臨時代理者 年額二千円
 助役臨時代理者
  年額一千三百二十円
 収入役臨時代理者
  年額  八百四十円
 給料年額ハ十二分シテ毎月之ヲ支給ス、支給ノ定日ハ毎月二十一日ト定メ、但シ休日ニ当ルトキハ順延トス
 
 旅費は鉄道、船賃は実費、日当は市長代理が一日四円、助役代理三円五〇銭、収入役代理三円、宿泊料は市長代理六円、助役代理五円五〇銭、収入役代理五円、食卓料(食費)一律二円五〇銭となっている。
 この旅費は県外出張の場合で、市内出張の場合は別で、市長は一日一円、助役と収入役代理には、それぞれ七〇銭が支給されている。
 したがって市制発足の一月一日からわずか四カ月後の五月一日に再び改正が行われていることになり月給も出張手当も引き上げられている。
 当時は自治体といっても、現在のように市独自では決定できないので、必ず知事の許可を必要としたため、給与、旅費支給方法についても知事名の文書(『市会議事録』)によって決定されている。
 大正十年四月には収入役代理に大堀由太郎が指名されている。翌十一年の市の当初予算は、歳入三九万七三五一円で、詳しいことは後述の市の組織と市議会の項に記してあるが、市当局と議会の動きをみると教育問題が中心となっている。