市制施行の経緯

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 千葉市制の施行が最初に問題になったのは、明治四十二年(一九〇九)であった。この年の町人口は三万二千余人で市制施行に支障はなかった。そこで加藤久太郎町長は四十二年八月二十九日町会終了後、議員及び有力者を役場に集めて市制施行の問題を提議した。その席上、宇佐美佑申議員は、
 本町に市制を施行することは年来の問題である。近く実施あるべきも先決問題は実施が利か、実施せざるが利かである。それを研究するため調査会を設置する要あるべし。

と発議し、これにもとづいて調査会をつくり委員三一名は、町会議員、町有志とし、新聞記者を相談役に委嘱、同年十月三日に第一回委員会を開いた。常任委員には加藤久太郎(委員長)、紅谷四郎平、鈴木利右衛門、大森源次郎、飛田良吉、宇佐美佑申、畑野亀次郎、高瀬茂兵衛をあげた。委員会は毎週木曜日を例会とし、連続的に会合を開いたが、四十三年三月三十日限りで調査会をひとまず打ち切り、六カ月にわたった調査報告を提出した。当時委員会で作成したものは、「千葉市仮定予算書」「各市の予算決算比較参考資料」などで、千葉町のほか、都賀村のうち作草部。都村のうち貝塚、辺田矢作。蘇我町のうち曽我野、今井を市域とするよう報告している。また町会の議事録をみても市制問題が討議されている。
 こうして盛り上がった市制施行問題も町政の混乱、財政の苦しさなどから一時立ち消えの形となり、大正二年には市制施行調査委員会廃止の提案が松山暢議員から出され、廃止されている。
 その後、市制問題が再び表面化したのは、大正六年(一九一七)で、和田秀之助町長のときである。和田町長は県から助役として小沢勝を移入し、町政の刷新改善に当たらせた(当時は財政難など町政に問題があったため、別記)。町会の抗争が絶えず、予算の審議や和田町長選任についても十数カ月間も紛糾した。こうした時に町会議員の改選が行われたが、改選後新町議を中心に市制研究会が誕生した。このとき当選した町会議員は次の三〇名である。
 信太武治、布施五兵衛、田村大三郎、長谷川清次郎、篠崎仁太郎、足立重雄、鈴木直太郎、遠山重義、石井幹、高梨鎮、小沢延太郎、能勢鼎三、和田秀之助、青木勝見、山谷藤三郎、遠藤憲治、深山長之助、長谷川仁太郎、斉藤三五郎、宮間萬治郎、大野力蔵、黒川只吉、武藤切次郎、大川種吉、国松真三郎、赤石鉄五郎、神谷良平、湯浅奭、鈴木文蔵、島崎留次郎。
 この新町会議員による市政研究会には町当局も参加を求められたので、和田秀之助町長をはじめ幹部が参加し、全国の人口六万以下の各市の実情を調査、その財力、事業の経費負担能力などの資料を収集し、これに千葉町勢の現況を加えて印刷し、会議資料として配布した。町側は和田町長と小沢助役が第一回会合にのぞんだ。会議では、出席者のうちあまり発言するものがなく、終始町側の説明のみで終わった。そのときの説明によると、
 千葉町は当時全国市制施行の都市のうち最尾である丸亀市から数えて七番目にあり、人口の点からすれば、十分に市制施行の資格がある。だが、財政面からすれば、町財政は極めて不確実である。従って市制施行の前提として財政整理をなす必要あり、徴収不確実な戸数割制を撤廃して家屋税制とし、財政を強固にすべきだ。

との結論であった。大正九年十月の国勢調査では全国各府県の県庁所在地のうち市制をしいていなかったところは、『千葉県史』によると浦和(一万二千人)山口(二万五千人)宮崎(二万一千人)と千葉の四町だけであった。また九年末に千葉町より人口が少ないか、または同規模で市制をしいていたところは、明石(三万三千人)弘前(三万三千人)大津(三万一千人)今治(三万人)福山(三万人)鳥取(二万九千人)高田(二万八千人)大垣(二万八千人)尾道(二万六千人)上田(二万六千人)丸亀(二万四千人)の各市であった。
 大正九年家屋税の第一期賦課の町会を開くと席上、市制施行のことが取り上げられ、市制問題はようやく機が熟してきた。そこで大正十年一月一日から市制施行のための内務大臣宛の内申書を全会一致で可決、九年の五月二十日、市制施行に関する書類を作成して内務省に提出した。その後数カ月たっても何らの音沙汰もないので、地元民を心配させた。その矢先、あとから出願した足利市が一足先に市制を認められたため、あわてた町当局は、十一月三十日に小沢勝助役を上京させて内務省に市制実現方を陳情した。その結果、十二月三日に内務省の係官が来町し、三日間にわたって各方面を調査して帰京した。
 その後も一向に市制については、なんらの連絡もなかった。これでは当初の案である十年一月一日からの市制実施はもはや困難視された。このため町では県当局にも応援を依頼したところ、内務部長が上京して内務省と強力に接衝の結果、十二月二十一日になって、ようやく地方局長から次のような連絡があった。
 千葉町は何分町税の滞納多く住民また自治の観念に乏しい、省議としては市制施行には異論あり。

 千葉町の弱点を卒直につかれた形であり、これでは「万事休す」の感慨を抱くものも少なくなかった。これをきいて折原巳一郎知事も大いに憂い、県庁のおひざ元が市にならなくてはと直ちに上京、各方面と折衝の結果、十二月二十三日に町会に対して、「市制施行に関する諮問案」を送達してきた。町会や町当局は大変苦心の末であり、その喜びは大きかった。歳末もおし迫った十二月二十七日に町会を開いて同意の答申を決定、十年一月一日から市制施行を告示した。
 そのあとは、市制実施まで四日しかなかったが、町では職員をあげて市制施行のための予算や諸条例の手続きなど準備にピッチをあげた。
 市制施行後の大正十一年十月に市内を一八区の区制をしき、区長規程を決めている。千葉町は一 ― ―九区まで(市場、亥鼻、亀岡などが一区)。寒川は一 ― ―五区まで。千葉寺が一区。登戸が一 ― ―二区。黒砂一区という形であった。これも大正十二年三月には三〇区に改正されている。
 区長報酬は百戸未満は年額一〇円、百戸を越えるごとに四円ずつ増額されている。この報酬は千葉町時代は百戸末満九円、百戸以上一四円、二百戸以上一八円、三百戸以上二三円、四百戸以上二七円と比べると、ほとんど据えおきの形である。