第三項 市の組織と市議会

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 千葉市は大正十年一月一日に市制施行とともに、三月七、八、九日の三日間にわたって市会議員の選挙を行っている。議員は三階級に分れていて、いずれも定員は一〇人であった。
 まず七日に三級議員、八日に二級議員、九日に一級議員と級によって投票、開票日を一日ずつずらしている。一度にやって混乱してはとの配慮と事務的な繁雑さをさけたように思う。
 まず三級議員の総投票者数は一、二三九票で、無効一五票であった。また二級議員の有権者は二〇二名、投票者数は一八三票であった。一級議員は投票が四三票、有権者は四四人であるので、一人だけ棄権したことになる。
 各級とも投票は八時ないし八時半から行われており、午後三時に投票を締め切り、直ちに開票が行われ、その日のうちに当選、落選が決まっている。
 投票と開票はいずれも市会の議場が使われているが、開票にさいしては、やはりうるさかったとみえて、選挙開票職員のほか、開票立ち会い人には必ず千葉警察署長と巡査部長が一人立ち会っている。
 ◇当選者
  〔一級議員〕 議員名の上の数字は得票順位
 ①今井与志雄(千葉)
 ②武本為訓 (〃 )
 ③石塚正二 (〃 )
 ④飛田良吉 (〃 )
 ⑤清古平吉 (〃 )
 ⑥国松真三郎(千葉)
 ⑦志方恵太郎(登戸)
 ⑧稲垣善四郎(千葉)
 ⑨武藤切次郎(〃 )
 ⑩石橋栄吉 (〃 )
  〔二級議員〕
 ①田中卯三郎(千葉)
 ②山谷藤三郎(〃 )
 ③古川興  (〃 )
 ④斎藤三五郎(登戸)
 ⑤田村六三郎(千葉)
 ⑥高梨鎮  (寒川)
 ⑦伊藤〓  (千葉)
 ⑧塩田鹿蔵 (〃 )
 ⑨沢部恒三 (千葉)
 ⑩和田秀之助(〃 )
 〔三級議員〕
 ①神谷良平 (千葉)
 ②山本政次 (黒砂)
 ③布施五兵衛(寒川)
 ④大野勝治 (千葉)
 ⑤伊藤徳太郎(千葉寺)
 ⑥島崎留次郎(寒川)
 ⑦長谷川仁太郎(〃 )
 ⑧中村健之助(千葉寺)
 ⑨羽田喜惣治(寒川)
 ⑩外山三郎 (〃 )

投票用紙の様式を定める伺文書


市制初の市議選の投票用紙―町時代のものを市と訂正して使用

 一級議員の得票は有権者がわずか四四人であるため、五票とか六票とかいう得票で当選している。このときの選挙で一級議員のうち下位四名が同点であったため、年齢順に当選を決め、一番若い人が落選となっている。
 しかし、この選挙では選挙人の名簿もれで寒川九七四番地の小沢勝から異議の申し立てがあって裁判が行われている。
 この投票を済ませたあとの八カ月後十一月には一級議員一人、二級議員一人の補欠選挙が行われている。議員死亡のためのようであるが、当時は一人でも欠員があれば、直ちに補欠選挙が行われたようである。
 市会発足とともに翌十一年三月二日の市会で市会会議規則が議決されているがそれまでは町村会議規則を準用したものと思う。新しい会議規則を次に掲げる。少し長文であるが、当時を知る資料にもなると思う。
 
 千葉市会会議規則(大正十一年三月二日議決)
    第一章 総則
  1.   第一條 議員ノ席次ハ総選挙ノ初会ニ於テ抽籤ヲ以テ之ヲ定ム但シ補闕議員ハ前任者ノ席次トシ補闕ノ議員二名以上アルトキハ抽籤ニ依ル
  2.   第二條 会議中ハ議長ノ氏名ヲ称ヘスシテ議長ト呼フヘク又議長ヨリ議員ヲ呼ヒ或ハ議員互ニ相呼フトキハ其ノ席次番号ヲ称フヘシ
  3.   第三條 議題ノ外会議中ニ起リタル総テノ事件ハ議長之ヲ決ス但シ異議アルトキハ会議ニ諮ヒ之ヲ決スヘシ
  4.   第四條 議案及報告書等ハ議長之ヲ各議員ニ配布スヘシ

    第二章 会議
  1.   第五條 会議ハ午後二時ニ開キ午後六時ニ閉ツ時宜ニ依リ議長ハ討論ヲ用ヰスシテ会議ニ諮ヒ之ヲ伸縮スルコトヲ得
  2.   第六條 会議ノ開閉ハ号鈴ヲ以テ之ヲ報ス
  3.   第七條 会議ノ開閉ハ議長其ノ旨ヲ議会ニ宣告スヘシ
    議長開会ヲ宣告セサル前及延会、閉会又ハ中止ヲ宣告シタル後ハ何人モ議事ニ付発言スルコトヲ得ス
  4.   第八條 出席議員定数ニ満タサルトキハ議長ハ相当ノ時間ヲ経テ更ニ之ヲ計算セシメ計算二回ニ至リ仍ホ定数ニ満タサルトキハ延会ヲ宣告スヘシ会議中退席者アリテ定数ヲ欠キタルトキ亦同シ

    第三章 議事日程
  1.   第九條 議長ハ会議ノ終ニ於テ次会ノ議事日程ヲ議会ニ報告シ市長ニ通知ス
  2.   第十條 議長ハ議事日程変更動議ニ賛成者アル場合及必要ト認ムル場合ニ於テハ討論ヲ用ヰスシテ議会ニ諮ヒ其ノ順序ヲ変更スルコトヲ得
  3. 第十一條 議事日程ニ指定シタル日ニ於テ所定事件ノ会議ヲ開クコト能ハサルトキハ議長ハ更ニ其ノ日程ヲ定ムヘシ
  4. 第十二條 議事ノ半ニ会議ヲ閉チ又ハ中止シタルトキハ其ノ事件ヲ次会ノ議事日程ノ始ニ加フヘシ

    第四章 議事
  1.  第十三條 発言セント欲スル者ハ起立シテ議長ト呼ヒ自己ノ番号ヲ告ケ議長ノ許可ヲ待テ発言スヘシ
  2.  第十四條 二人以上起立シテ発言ヲ求ムルトキハ議長ハ先起立者ト認ムル者ヲ指シテ発言セシメ同時ノ起立ナルトキハ議長ノ指定スル所ニ依ル
  3.  第十五條 既ニ発言ノ許可ヲ得タル議員未タ発言終ラスシテ其ノ日ノ会議ヲ閉チ又ハ中止シタルトキハ次会ノ開会ノ初ニ於テ前ノ発言ヲ継続スルコトヲ得
  4.  第十六條 凡ソ発言ハ議題外ニ渉ルコトヲ得ス
  5.  第十七條 議長自ラ討論ニ与カラントスルトキハ予メ之ヲ通告シ議員席ニ着キ副議長ヲシテ議長席ニ着カシムヘシ
      議長自ラ討議ニ与カリタルトキハ其ノ問題ノ表決ニ至ルマテ議長席ニ復スルコトヲ得ス
  6.  第十八條 発言者未タ尽キスト雖議長ニ於テ論旨已ニ尽キタリト認ムルトキ又ハ討論終結ノ動議ヲ起ス者アルトキハ議長ハ討論ヲ用ヰスシテ議会ニ諮ヒ之ヲ決スヘシ
  7.  第十九條 会議ハ第一読会、第二読会、第三読会ニ区別ス
  8.  第二十條 第一読会ニ於テハ議案ヲ朗読シ其ノ大体ニ付討議シタル後第二読会ヲ開クヘキヤ否ヤヲ議決スヘシ
  9. 第二十一條 第二読会ニ於テハ議案ヲ逐條朗読シテ之ヲ議決スヘシ
  10. 第二十二條 議長ハ便宜ニ依リ数條ヲ聯ネ又ハ一條ヲ分割シテ審議セシムルコトヲ得但シ議員二名以上ノ異議アルトキハ討論ヲ用ヰスシテ会議ニ諮ヒ之ヲ決スヘシ
  11. 第二十三條 第一読会ノ動議及第二読会ニ於ケル修正ノ動議ハ提出者ノ外賛成者ナキモノハ議題トナスコトヲ得ス
  12. 第二十四條 第三読会ニ於テハ議案全体ノ可否ヲ議決スヘシ
  13. 第二十五條 第三読会ニ於ケル修正ノ動議ハ提出者ノ外四名以上ノ賛成者ナキモノハ議題ト為スコトヲ得ス但シ議案中互ニ抵触スル事項又ハ法律命令等ニ抵触スル事項アルコトヲ発見シタルトキハ此ノ限ニアラス
  14. 第二十六條 議員二名以上ノ請求又ハ議長ノ意見ニ依リ討議ヲ用ヰスシテ会議ヲ諮ヒ朗読又ハ第二読会若ハ第三読会ヲ省略スルコトヲ得
  15. 第二十七條 修正ノ動議ハ其ノ案ヲ具ヘ議長ニ提出シ又ハ口頭ヲ以テ陳述スヘシ
  16. 第二十八條 修正ノ動議ハ原案ニ先テ決ヲ採ルヘシ
  17. 第二十九條 同一ノ議題ニ付キ数個ノ修正動議提出セラレタル場合ニ於テ表決ノ順序ハ原案ニ最モ遠キモノヨリ先ニス若シ議員ニ異議アルトキハ其ノ賛成者アルヲ待テ討論ヲ用ヰスシテ議会ニ諮ヒ之ヲ決スヘシ
  18.  第三十條 修正案原案共ニ過半数ノ賛成ヲ得サル場合ニ当リ議会ニ於テ廃棄スヘカラサルモノト議決スルトキハ市長提出ノ議案ニ在リテハ更ニ其ノ提出ヲ建議シ議会提出ノ議案ニ在リテハ特ニ委員ヲシテ其ノ案ヲ起サシメ会議ニ付スルコトヲ得
  19. 第三十一條 列席ノ議員ハ表決ノ数ニ加ハラサルコトヲ得ス
      表決ノ際議場ニ現在セサル議員ハ表決ニ加ハルコトヲ得ス
  20. 第三十二條 議長表決ヲ採ラントスルトキハ表決ニ付スヘキ問題ヲ明瞭ニ議会ニ宣告スヘシ議長表決ニ付スヘキ問題ヲ宣告シタル後ハ議員ハ議題ニ付発言スルコトヲ得ス
  21. 第三十三條 議長表決ヲ採ラントスルトキハ其ノ問題ヲ可トスル者ヲ起立セシメ起立者ノ多数ヲ認定シ可否ノ結果ヲ宣告スヘシ其ノ結果疑ハシト認ムルトキ又ハ議長ノ宣告ニ対シ異議ヲ申立ツル者アルトキハ議長ハ書記ヲシテ議員ノ番号ヲ点呼計算セシメ可否ノ結果ヲ宣告スヘシ
  22. 第三十四條 議長ニ於テ必要ト認ムルトキ又ハ議員二名以上ノ請求アルトキハ起立ノ方法ヲ用ヰスシテ記名若ハ無記名投票ヲ以テ表決ヲ為サシムヘシ
      投票ヲ終リタルトキハ議長ハ書記ヲシテ之ヲ計査セシメ其ノ結果ヲ宣告スヘシ
  23. 第三十五條 議員ハ自己表決ノ更正ヲ求ムルコトヲ得ス
  24. 第三十六條 市制第九十篠ニ依リ再議スルノ外同一会期内ニ於テ同一議題ヲ議スルコトヲ得ス

    第五章 全会委員会及委員会
  1. 第三十七條 議会ハ議案ノ調査若ハ修正等ニ付議員ノ全員ヲ以テ委員ト為シ全会委員会ヲ開クコトヲ得
  2. 第三十八條 議会ハ文案ノ起草、議案ノ調査若ハ修正等ニ付委員会ヲ設クルコトヲ得但シ委員ノ数ハ奇数トス
  3. 第三十九條 全会委員会ハ委員三分ノ一以上、委員会ハ委員半数以上ノ出席アルニアラサレハ会議ヲ開キ議決ヲ為スコトヲ得ス
  4.  第四十條 全会委員会ハ副議長ヲ以テ委員長トス副議長事故アルトキハ臨時之ヲ互選スヘシ
  5. 第四十一條 委員会ハ委員長一名ヲ互選スヘシ
  6. 第四十二條 全会委員会及委員会ノ議事ハ過半数ヲ以テ之ヲ決ス可否同数ナルトキハ委員長ノ決スル処ニ依ル
  7. 第四十三條 全会委員会並委員会ハ議会ノ附託シタル事件外ニ渉ルコトヲ得ス
  8. 第四十四條 委員長ハ会議ノ経過及結果ヲ議会ニ報告スヘシ
  9. 第四十五條 市長及其ノ委任若ハ嘱託ヲ受ケタル者ハ全会委員会及委員会ニ参与スルコトヲ得但シ可否ノ数ニ加ハラサルモノトス
  10. 第四十六條 全会委員会及委員会ハ傍聴ヲ許サス

    第六章 秩序
  1. 第四十七條 議員参着シタルトキハ出席簿ニ捺印スヘシ
  2. 第四十八條 欠席スル議員ハ其ノ事由ヲ開議時刻前ニ議長ニ届出ツヘシ
  3. 第四十九條 遅参ノ議員ハ其ノ旨議長ニ告ケテ議席ニ着クヘシ
  4.  第五十條 会議中議員退席セントスルトキハ議長ニ届出ツヘシ
  5. 第五十一條 議場内ニ於テハ私語、喫煙等総テ秩序ヲ紊タシ議事ヲ妨クル挙動アルヘカラス
  6. 第五十二條 市制並本規則ニ違背シタル議員アルトキハ議会ノ議決ニ依リ三日以内其ノ出席ヲ停止スルコトアルヘシ

 この議事規則を決定したとき、「市会傍聴人取締規則」をきめている。同規則は現行の傍聴人規則より若干きびしいものがあるが、ほぼ常識的な内容であるので省略する。

千葉市会会議規則と傍聴人取締規則およびその一部

 ところで、市制施行早々の大正十年一月ごろから市営住宅建設の議論が市会に出されている。当時の議事録をみると、貸し家の家賃が非常に高くなったことと、住宅不足の声が目立ってきたことをあげて論議されている。しかし、当時の財政規模は歳入歳出とも当初予算はわずか一五万七〇五一円であったことを考えれば、住宅が不足しているからといって簡単に市営住宅を建設できる状況ではなかった。
 なん度となく県知事とも相談の結果、三月の市会で四万五千円の市債を発行することを決定し、借入れ先は逓信省(現郵政省)と話し合いがついて知事から許可されている。年利は五分であった。
 当時、市会できまった建設案をみると次のようなものである。
    規模    敷地    建坪    室数
 第一種一〇棟  六〇坪   一七坪    五室
 第二種一〇棟  五〇坪   一三坪余   四室
 第三種一五棟  三〇坪    九坪余   二室
                (一坪は三・三平方メートル)
 建築費は第一種の五六平方メートル(一七坪)で二千円をかけているので、デラックスな建物であった。貸付規程は次のようになっている。
 大正十年四月
 市会議案第十九号修正案
  市営住宅貸付規定
 第一種(十七坪)    十九円
 第二種(十三坪七合五勺)十四円五十銭
 第三種(九坪七合五勺)  七円
 敷地料金ハ市ノ貸借料一坪一ケ月五銭ヲ以テ各種住宅ノ敷地坪数ニ応スル額トス但シ市ノ賃貸ノ増減ニ依リ変更スルコトアルヘシ
との条件がついている。入居者については十六年の月賦によって、なし崩しで所有権を認めている。入居の賃貸料金は一カ月の額であるが、原案では一種住宅は一八円となっていた。議会で修正されて一九円になったようである。これには火災保険づきのため保険料金も含まれている。
 市営住宅の建築面積については当初第一種は六六平方メートル(二〇坪)第二種は四九・五平方メートル(十五坪)第三種は三三平方メートル(一〇坪)の予定であったが、計画を若干縮少したものとなっている。
 建設場所は寒川一、三八七番地ほか近接の土地を借用しているが、借用に当たっては篠崎七郎平ら五人と借地契約を結んでいる。
 ついで大正十年五月八日に市章を決めている。
 大正十年五月八日
 千葉市告示第五十号
 「市会ノ議決ヲ経タル市ノ徽章左ノ如シ」
              市長
とある。市章のマークは現在使用されているものと同一のものである。そのいきさつについては『議事録』には見当たらないが、由来を市のパンフレットによると「千葉市の開祖千葉氏ノ紋章ハ、九曜星ニシテ月星も併用シアリ、又、当市内ニ鎮座セル県社千葉神社ノ紋章モ亦此ノ両者ヲ併用ス、依テ月星ニ千葉市ノ「チ」ヲ配シテ本市ノ徽章トセリ」とある。この由来については、のちに定義づけられたのではないかと思う。

市の徽章議決の文書と市章

 大正十年の市会できめられた当初予算(議会予算書より)は、次のとおりである。
▽歳入 一五万七〇五一円
 財産収入           七五七円
 特別基本財産収入       七五七〃
 使用料及手数料      七、一二九〃
 交付金          四、四九五〃
 国庫補助           四〇〇〃
 県費補助         二、四一〇〃
 国渡下渡金        四、一三〇〃
 寄付金          二、九七八〃
 繰越金            六二〇〃
 雑収入          八、一二二円
 市税        一二万六、〇〇九〃
▽歳出 一五万七〇五一円
 役所費        三万七、八三八円
 会議費          二、二六二〃
 土木費          六、八二八〃
 教育費        六万八、六四四〃
 伝染病予防費       五、二八四〃
 隔離病舎費          七一一〃
 屠場費          二、〇五〇〃
 公園費            三七二〃
 汚物清掃費        八、二九六〃
 衛生費             六〇〃
 勧業費            一二四〃
 救助費            三五二〃
 警備費          六、一一二〃
 諸税負担             九〃
 神社費             六〇〃
 雑支出          四、七八二〃
 予備費          二、四二二〃
  計        一四万七、二八三〃
 臨時支出         四、五〇〇〃
 基本財産造成費支出    二、六七八〃
 この予算のうちわけをみると、収入部門では市税が収入のほとんどを占めている。使用料、手数料収入の大部分は、小学校の授業料収入である。市税のうちでは家屋税付加税がトップで六万六千余円、ついで国税営業税付加税が二万円弱となっている。
 支出部門では、役所費三万七千余円のうち給料が二万三千余円で大部分を占めている。会議費の中には議会の書記二人分と使丁二人分の給与及び郵便電信料として二八〇円が含まれている。教育費は大部分が小学校費である。
 伝染病予防費、汚物清掃費がかなりのウエートを占めているが、医療関係の未整備で伝染病が流行したことが考えられる。特に汚物清掃費の中には掃除夫延べ四千二百人もの費用が含まれている。警備費は、いまの消防費である。
 当時の予算書をみると、屠場費の中に電燈代一個一カ月八〇銭、学校の電燈費は全校で七五円が計上されている。
 ついで大正十年五月には追加予算として四千六百円が提出されているが、これは郡の引継ぎのためであった。

千葉市予算の新聞報道   (『千葉庶民新報』)

 それより前の四月に助役を増員して二名とすることが決まっている。それによると
 市会議案第十二号
   助役条例
 市制第七十二条第二項ニ依リ助役ノ定数ヲ増加シテ二名トス
  大正十年四月
                  千葉市長臨時代理者
となっており、これは市会で承認されている。その後、翌十一年三月市会で増員に伴う助役に市原郡主席書記の鈴木彰を県と交渉のすえ迎えている。しかし、同年の十一月には小沢勝が辞任している。
 市制発足当時は財政難で神田清治市長は、その対策に苦慮したことがわかる。
 十年の予算は前述のとおりであるが、十一年と十二年の当初予算をみると、
 大正十一年の予算
▽歳入 三九万七三五一円
▽歳出(経常)
    一九万〇五二〇円
   (臨時)
    二〇万六八三一円
 このとき市債一五万円を発行している。そのほとんどは小学校建設費などで、当時人口のぼう張などと教育の充実に伴う教育費の増大が大きな悩みのタネであった。したがってやむを得ず市債を発行したもの。十一年の市税収入は一七万九千余円で前年より五万円ほど増加している。歳出の経常、臨時合わせて三九万円のうち教育関係に一八万八千円を投じており、歳出の半分は教育費であった。しかもこの年の市会の協議内容をみると、暖房設備の件や雨中体操場設備の件が問題になっているし、学校清掃婦増員の件も討論されている。また給与アップによって役所費が著しく増加していることも特徴の一つである。
 大正十二年の予算
 ▽歳入        三六万一一七〇円
 ▽歳出(経常)    二一万四七一四円
    (臨時)    一四万六四五六円
 臨時費一四万円のうちわけは、教育費に一〇万余を費しており、引き続き教育費のウエートが高かったことがわかる。経常を合わせると教育費だけで二一万円を突破している。市税収入は二二万二千余円と前年度にくらべて五万円ほど増加している。税収は順調にふえていたわけである。いずれにしても大正九年の町制時代に比べると市制以後の予算は一気に三倍以上にふくれたことになる。
 しかも大正十一年、十二年とも数度にわたって追加予算がそれぞれ提案されている。特に大正十二年の追加予算では伝染病予防費がかなり追加されていることが目だっている。
 ところで、課税の方をみると、市制発足当時決められた案によると
 地租附加税 宅地地租   一円ニ付二拾八銭
       その他の地租 一円ニ付六拾六銭
 国税営業税附加税     一円ニ付四拾七銭
 所得税附加税       一円ニ付 拾四銭
 売薬営業税附加税     一円ニ付  五銭
 県税家屋税附加税   本税一円ニ付  二円
 県税営業税附加税   本税一円ニ付 九拾銭
            日税一円ニ付 六拾銭
 県税雑種税附加税   本税一円ニ付 九拾銭
            日税一円ニ付  六銭
 日税屠畜税      一円ニ付   七拾銭
 県税遊興税附加税   本税一円ニ付 七拾銭

(大正十年『市議会議事録』)


 そのほか市制発足のとき手数料などが値上げされたが、学校の授業料も同時に値上げすることになり市会で了承されている。それによると、尋常小学校の授業料が月額一〇銭から一五銭に、高等小学校は三〇銭が五〇銭へ、師範付属小学校は二〇銭となった。市制になって市民の負担も増加したことになる。ただ、予算に就学奨励が百円計上されているところをみると、学校へ入学できなかった子供がかなりいたものと思う。
 更に大正十一年二月には県税家屋税賦課方法を決めているが、それによると敷地の等級率によって一~二八等に分類し、しかも建物の種類は一類から四類に分けられている。
 それより先、大正十年四月に家屋税調査委員設置条例を市会で決定、委員一六人を任命している。内わけは市会から六人、名誉職参事会から二名、市民から八名で任期は二年となっている。
 同時に伝染病予防委員定数規程も決定し、委員四名で発足している。二名は医師から、残る二名は市民からとなっている。家屋税、調査委員、伝染病予防委員の市民代表は、いずれも選挙権を有する市民との条件がついているので、だれでも選任されたわけではない。
 当時の市会では追加予算そのほか急を要するものは、すべて参事会だけで可決している。
 大正十二年一月になって神田市長辞任劇が展開され、市会で大きな論議を呼ぶことになる。事件の発端は前述の市営住宅の建設に伴って汚職が指摘されたためである。これがきっかけで吏員の綱紀粛正問題に発展している。このため一部の市議らが中心となって神田市長排撃運動の火の手をあげた。
 これに対し市長擁護派は連判帳をつくって支持したため、両派は激しく対立市政上の大問題となった。
 この住宅汚職の問題は前年の十一年からくすぶりつづけ、ついで小沢勝助役が市長と意見が対立して十一年の十一月十六日に辞任し反市長派に加わったので、市会の対立に一層拍車をかけた形になった。
 しかも、この間神田市長は市会の議事録をみると、部下の汚職の責任をとって辞任をもらしており、一たん神谷市会議長に辞表を預けたものの、その後撤回したことが暴露されたため、市長の言動について不信が高まり、辞任要求は一気に強くなった。
 一月二十七日の市会では和田秀之助議員ほか六名によって「神田市長ヲ信任セズ」の不信任決議案が提出され、一八名の留任決議の連判問題が追及された。
 しかし、当日の『議事録』をみると、少数に多数で、結局不信任案は否決されているが、意外にあっさり留任がきまっている。
 ついで九月の大震災直後の十六日に市会が招集され、救助対策が協議されている。『議事録』によると、
 死亡一、負傷者五、家屋全潰二、非住家全潰二、同半潰二、学校全潰二、同半潰二
となっている。市会ではタキ出しをやって東京府民の救済が報告されている。特に千葉神社、千葉停車場に収容所をつくって避難民を収容しているし、東京から避難民が続々きていることが報告されている。被害について義捐金募集のことも協議されている。

大震災の県救護本部

 その後再び神田市長排撃運動が起こり、ついに同市長は十三年七月三日に市長の職を辞任した。その前の十二年十一月十七日に助役に景山周蔵が就任している。
 市長後任については、紛糾にこりて選考委員の神谷良平議長や和田秀之助議員らを選んで協議した。神谷、和田両議員も市長候補線上に浮かんだが、中立的立場の人物を推す空気が強く、県の推薦する久保三郎が新市長に決定した。
 大正十四年三月には市会議員の改選が行われ、二期目の議員が誕生した。当選者は次のとおりである。
 ▽一級議員 一瀬房之助、古川興、山本政次、和田秀之助、山谷藤三郎、中尾千剛、志方恵太郎、斎藤三五郎、国松真三郎、森谷喜惣治、足立重雄、田村六三郎、沢部恒三、石塚正二、板倉兵玄。
 ▽二級議員 笹本長吉、大沢中、田中丑蔵、長谷川仁太郎、高橋芳太郎、島崎留次郎、深山吉太郎、青葉忠次郎、外山三郎、鹿倉音次郎、布施五兵衛、小川敬信、土屋恒三、内山徳太郎、神谷良平。
 一級、二級とも定員一五名で、十年当時の三級議員はなくなっている。千葉町当時と同じく議員には番号がついていて、毎回の議事録に必ず番号が書き込まれている。改選後の議長に和田秀之助、副議長に一瀬房之助が選ばれている。
 議員の報酬は、名誉職であったので報酬はなかった。大正十年四月に実施された市会の『議事録』によると、費用弁償は日額として議長が四円、副議長が三円五〇銭、議員が三円となっている。旅費は鉄道、船賃は実費支給、車馬賃は四キロ(一里)につき七〇銭、出張の日当は一日四円、宿泊料は一日六円、食卓料(食費)二円五〇銭となっている。
 大正十二年一月の市会で千葉町は市になったのであるから衆議院選挙区を単独区とする衆議院選挙法改正を強力に運動することに決定、東京に事務所を設けている。
 また、毎年のように葭川のはんらんによって被害をうけているとして同川改修の建設案が武本為訓議員ら五人によって、同年市会に提出されている。同川は当時かなり付近の住民に被害を与えていたものである。
 同年五月には千葉電燈株式会社から、千葉警察署内の火の見ヤグラに百燭光の電燈一個寄付の申し出があり、これを受け入れている。
 大正十年当時、消防組織はどうであったかというと、予算書からみると次のようになっている。
 組頭(一人)部長(一〇人)小頭(二一人)信号(一〇人)伝令(一人)消防手(四一五人)
 以上の陣容をみると、常設でない消防団としてはかなり充実していたように思う。報酬は組頭が年額百円、部長が同じく二五円、小頭二〇円、信号手三円、伝令二〇円、消防手二円となっている。
 また大正十二年当時の徴兵検査をうけた者は市の文書をみると二四五人おり、そのうち現役が四六人、補充兵が八七人、一年志願が九人、徴兵免除九六人、兵役免除五人となっている。しかも同年に朝鮮の部隊に入営する七人については、市役所の吏員が大阪まで出張して見送りに行っている。また、このころ、市道認定調書によると二三八路線が定められている。