千葉開府八百年祭

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 大正十五年六月一日、世は不景気時代に沈んでいるとき、千葉市に一大記念祝典があげられた。それは千葉開府八百年祭であった。千葉は鎌倉時代の大治元年(一一二六)六月一日に下総、上総を領有していた千葉常重が大椎城(大椎町)から猪鼻城に本拠を移した。このときに千葉市の都市的起源はおかれる。これから計算して八百年目に当たるからであった。この八百年祭は六日間もつづき、全市をあげての大祝典となった。千葉市主催の神前奉告祭が千葉家の祖先を祭る千葉神社で行われ、終わって武徳殿で祝賀会、つづいて館跡の猪鼻台において園遊会がひらかれ、朝野の名士約二千人に達したと翌日の『読売新聞』が報じている。
 『東京日日新聞』によれば、下志津飛行場からユンケル戦闘機が一〇機も宙返り・木の葉落しの妙技で上空から市民の喜びを祝福したという。市内は満艦飾にかざられ、千葉駅、本千葉駅、京成千葉駅には大アーチが立てられ、商店街はショーウインドを飾り、市役所、県庁を中心とする装飾は人の目を奪った。二日は大日寺において墓前祭と県立高等女学校において「千葉氏」の講演、三日は武徳殿で県下青年大会、四日は市内の小学校・中学校・師範学校の旗行列、五日は県教育会総会、六日は県下庭球大会が開かれた。また岡本綺堂脚色の千葉家の古事「千葉笑い」が昼夜を通して亥鼻館で上演された。期間中には県警察展、自治資料展、動力農具展、史料展が市内各地で開かれた。『東京日日新聞』(大正十五年六月二日)は、千葉家四十三代の孫と名のる東京都下高井戸の千葉三郎次の出品した千葉家の遺宝を記している。その中で特に紹介しているのは、文治二年(一一八六)七月二十六日の検見川沖で名月を賞して舟遊びをしたときに網にかかった一寸八分の金製の十一面観音(国宝)、千葉常胤が羽衣の松の下で一夜天女と語らい、片袖を片身に残したという羽衣の袖、御嵯峨天皇の菊御紋章の御墨付などであった。
 千葉開府八百年祭は「千学集」の記事を根拠にしたものであるが、この点についてすでに鎌倉時代の千葉氏の歴史について述べているから、ここではその当否にふれない。しかしこの祝典は大正十年の市制施行祝典とならぶもので、大正~昭和(戦前)期における千葉市の二大祝典であった。当時の不景気に沈滞する千葉市民に千葉市の歴史を回顧させ、市民に活気をつけるに役立ったことはいうまでもなかった。