市域の拡大(町村合併)

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 明治二十二年(一八八九)に千葉町、寒川村、登戸村、黒砂村、千葉寺村が合併して千葉町となった。その当時の総面積は一五・二二平方キロメートル、現在の市域の六・〇パーセント、人口は一万九六七七人であった。それから三二年後の大正十年に町村合併をしないで千葉町だけで市制施行、当時の戸数は六、四九六戸、人口三万四八二六人であった。新しい千葉市の市域では、中心市街の旧千葉町の戸口の増加がはげしいことはいうまでもなかった。この中心市街の戸口増加は旧都村にもおよんでいった。旧検見川町と旧蘇我町は大正期に人口の減少がつづいていた。かつての港町の機能が鉄道開通によって失った影響が尾を引いていた。内陸の旧都賀村では戸口の増加わずかながらも現れていた。ここには軍隊関係のさまざまの施設や営業が増加したからであった。同じ内陸の旧千城村では戸口の増加はほとんどなかった。旧都賀村のように戸口の増加をうながす原因は発生しなかったからである。このようなことは誉田村・土気町にも同様で、この町村には戸口の増加は停滞的であった。
 昭和期(戦前)に二回の市域の拡大が行われた。第一回は昭和十二年二月十一日に千葉市、検見川町、蘇我町、都賀村、都村が合併した。当日は千葉神社で合併奉告祭、県教育会館で合併祝賀会、県庁公園で園遊会を開き、全市の小学校生徒の約五千人の旗行列が行われた。この市域拡大によって、千葉市の戸数は一万一九三八戸から一万六四三八戸に増加し、人口は五万七四四五人から八万五五四九人に増加した。市域の面積は五一・六九平方キロメートル、現在の二五・四パーセントに拡大した。市制施行をした大正十年から昭和十二年まで約一五年間を経過しているが、市域全体にわたって戸口の増加がゆるやかであった。特別に千葉市を発達させる力が発生しなかったからであった。昭和十九年二月十一日、千城村を編入、千城村は当時の面積が一九・四五平方キロメートル、人口が四、五二二人であった。千葉市は面積が八六・三三平方キロメートルとなり、現在の面積の三一・二パーセントとなった。また人口は一一万一三九人に増加し、戸数は二万二四九〇戸に達した。この戸口は戦前の千葉市の戸口の最大数であった。千葉市が戦災をうけて戸口が激減し、その後の復興によって昭和十九年の戸口をこえるのは昭和二十二年からであった。このときの戸口の分布は戦災前とは大きく変化し、中心市街は昭和十九年ころの人口数に達せず、周辺の合併した旧町村に戸口は激増した。
5―60表 大正~昭和期(戦前)の人口増加
年度
地区     
大正6年大正14年昭和10年昭和22年
旧千葉町戸数6,3258,78011,93814,320
人口24,82241,80657,44564,865
旧検見川町戸数1,1131,4311,6804,255
人口8,1437,7919,09419,385
旧蘇我町戸数7208698952,694
人口4,9784,2204,92317,416
旧都村戸数6658128971,450
人口4,1395,2946,0957,438
旧都賀村戸数7718691,0262,047
人口4,3727,9237,9879,979
旧千城村戸数577589689962
人口3,7613,7794,1386,324
  1. 注 1 人口数は現住人口である。
  2.   2 昭和12年の町村合併,昭和19年の千城村合併などの統計資料がないので,その前後の統計資料をかかげた。