都市機能と産業別人口

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 千葉市は千葉町といった明治後期から、大正十年に千葉市となって、昭和二十年に戦災で廃墟化するまで、この五〇年間には都市機能はほとんど変化はなかった。都市はさまざまの都市活動をして発達していくものである。一つ一つの活動分野を都市機能というが、都市機能が新たにつけ加わるとその都市活動をする都市施設と都市人口が増加する。千葉市の明治後期から大正期をへて昭和期(戦前)に至るまでの都市機能は、明治後期までに成立した都市機能が肥大したものであった。したがって千葉市の人口はこの期間に飛躍的に増加することができなかった。帳面上の人口増加は隣接町村の合併による部分が大きかった。
 都市機能の成長や多様化は産業別世帯の数と構成からもうかがわれる。昭和八年と昭和十四年の産業別世帯をとりあげて、町村合併をする前後を比較してみよう。
 合併前の千葉市として昭和八年の産業別世帯は、総数一万六六〇世帯であった。このうち商業世帯は三、三九〇(三二パーセント)でもっとも多く、商業の町、千葉市の性格をあらわしている。つづいて公務・自由業世帯は二、一三四(二〇パーセント)、工業世帯は一、六〇六(一五パーセント)、無職世帯が一、三七〇(一三パーセント)である。また交通業世帯は八八九(八パーセント)、その他が五一五(五パーセント)となっている。これらは第二次産業の世帯と第三次産業の世帯である。これに対して第一次産業は農業世帯が五三九(五パーセント)、水産業世帯が二一七(二パーセント)である。第一次産業の世帯は七パーセント、第二次産業の世帯は一五パーセント、第三次産業の世帯は七八パーセントである。合併後の千葉市の産業別世帯の構成は、千葉市の周辺の農村を含むので第一次産業の世帯が増加し、全体の構成も変化した。総世帯数は一万六千八百、このうち商業世帯は四、〇三八(二四パーセント)で、やはり他の産業別世帯数を圧倒している。合併した町村のうち、検見川町と蘇我町は商店街が早くから発達していたからである。公務・自由業は二、八六〇(一七パーセント)となり、やはり産業別世帯の中では第二位であるが、その割合は低下した。合併しても公務・自由業の世帯はあまり増加しなかった。工業世帯は二、五二四(一五パーセント)となり、著しく増加した。これは検見川町と蘇我町は食料品加工業がさかんであったからである。無職世帯は二、〇一九(一二パーセント)もかなり増加した。交通業世帯は一、五一四(九パーセント)、その他が六五二(七パーセント)であった。農業世帯は二、一八七(一三パーセント)で著しく増加し、水産業世帯も三三六(二パーセント)と実数において増加したのは、海岸の漁業者が多い検見川・蘇我を合併したからであった。合併後の千葉市は第一次産業世帯は一七パーセント、第二次産業世帯は一五パーセント、第三次産業世帯は六八パーセントであった。合併前とくらべて第一次産業世帯の割合は高まり、第三次産業世帯の割合は低下したが、千葉市の産業別世帯からみた都市機能は本質的に変化しなかった。
 千葉市の都市機能を明らかにするためには、中心市街(合併前の千葉市の市域)における産業別人口を詳しく分析することである(五―六一表参照)。昭和七年十月一日現在で千葉市は市是を確立するために産業別人口の人数と居住地を調査した結果が残っている。このときの戸数は一万〇六六一戸、人口は四万九二五〇人であった。このうちの就業人口は一万三〇二七人であった。五―六一表によれば、商業人口が四、三八八人というが、店舗は物品販売業の二、五四四店であった。このころは行商人が商業人口の八分の一をしめていたほど多かった。公務・自由業の中に分類されているが、商業人口に入るものとして、書記的職業のうち、会社員三四二人、事務員八一人がある。昭和七年の市街地における会社数は総数七三、そのうち株式会社が二九、合資会社が三八、合名会社が六になっている。その創立年度をみれば、株式会社では明治四十四年以前は二、第一次大戦の好況期に当たる大正元~九年までの創立は七、戦後の不況であった大正十~十四年に六、昭和一~七年までの創立が一一であった。合資会社の三八は大正元~九年までが三、残り三五は昭和期になって創立された。合名会社の六は大正十~十四年に一、残りの五は昭和期になって創立された会社であった。商業人口のうち、接客業が多く、特に料理店、下宿が目だつことは明治以来である。千葉市の都市機能は「商業の千葉」といわれたが、市内のサラリーマンと周辺の農家を相手とする小売商業であった。
5―61表 千葉市の就業人口(昭和7年10月)
(1)商業人口 4,388人(33.7%)
商業的職業(3,391人)
 物品販売業2,544
 仲買周旋人43
 店員206
 外交員9
 露店商8
 行商人581
金融保険業(189人)
 銀行員111
 保険代理2
 保険社員43
 金貸業14
 無尽社員11
 質屋8
接客業(808人)
 料理飲食239
 旅館下宿99
 理髪師80
 浴場業39
 貸座敷11
 置屋業13
 女髪結25
 番頭19
 料理人8
 カフェー52
 芸妓・娼妓・女中223
(2)交通業 933人(7.1%)
運輸に従事する者(842人)
 鉄道員445
 自動車業28
 自動車運転手106
 人力車夫80
 舟乗夫48
 馬車ひき35
 運搬人100
通信に従事する者(91人)
 局員79
 集配人12
(3)公務・自由業 2,865人(22.0%)
官公吏(1,273人)
 官吏413
 公吏148
 官雇傭199
 巡査59
 刑務看守46
 陸軍々人380
 海軍々人28
法務に従事する者(43人)
 弁護士34
 その他9
教育に従事する者(321人)
 医大教員18
 中等学校教員40
 師範学校教員21
 小学校教員217
 その他の教員25
医療に従事する者(708人)
 医師132
 医大医員90
 歯科医42
 薬剤師14
 看護婦285
 付添婦60
 あんま48
 産婆33
 獣医4
書記的職業(520人)
 会社員342
 事務員81
 代書人10
 新聞記者75
 著述家8
 易者4
(4)工業人口 1,865人(14.3%)
金属工業(121人)
 鍛冶職44
 ブリキ職29
 機械器具製造24
 その他24
せんい関係の工業(246人)
 打綿業5
 染色業38
 洗張業13
 洗濯業38
 和服仕立31
 装身具製造22
 提灯製造8
 その他の紡織91
紙工業印刷関係(193人)
 紙箱製造10
 印刷業主28
 製本7
 文選工15
 印刷工66
 写真師30
 表具師25
 その他12
木竹革草蔓類製造(258人)
 製材業4
 建具職95
 家具指物28
 桶職25
 折箱製造13
 車大工8
 船大工12
 畳職41
 錺類14
 その他18
土木建築業(695人)
 土木建築請負75
 技術職員監督6
 大工331
 左官63
 鉄筋工15
 土工66
 鳶95
 研工4
 その他40
飲食料品製造(92人)
 精米業5
 製粉業12
 製粉職工15
 菓子製造28
 でんぷん製造3
 うどん・ふ製造1
 水飴製造15
 菓子・水飴製造13
その他の工業(256人)
 文房具23
 玩具2
 彫刻師8
 塗工35
 職工167
 井戸職11
 医大雇員10
(5)農業 596人(4.6%)
 農業主215
 作男作女334
 植木職21
 畜養業14
 畜産労務3
 搾乳業9
(6)水産業 465人(3.6%)
 漁業主66
 漁撈399
(7)その他の有業 545人(4.2%)
 唄師匠5
 映画従業員9
 遊戯場19
 生花師匠17
 自転車修繕30
 馬丁23
 ブリッキ職36
 木挽17
 賄業3
 賄夫20
 給仕小使134
 日傭217
 音楽家5
 画家10
(8)無業 1,370人(10.5%)
 総計 13,027人

(『千葉市年鑑』昭和9年,千葉市民新聞社)


 千葉市は県都、県政の中心地あるいは「役人の町」といわれた。その実態をつくりあげていた人々は公務・自由業の二、八六五人(二二・〇パーセント)である。このうち官公吏の一、二七三人が特に多く、弁護士や代書人も役人の町に欠くべからざる人々であった。また医療に従事する者が七〇八人、千葉市は「医者の町」であった。また新聞記者の七五人も県都という情報が集中する都市であったからである。「軍郷の千葉」といわれたが、軍人の居住者は四〇八人で多くはなかった。しかし毎年一月十日に入営兵が佐倉・四街道・千葉・習志野の各連隊に約三千人も集まり、昭和十年代になると軍備拡張によって約四千人に増加した。千葉市にも歩兵学校、鉄道第一連隊、気球学校などで約千人の入営兵があった。これらの軍隊の諸学校には年々約二千人の兵士が訓練されていた。たしかに千葉市は「役人の町」、「医者の町」、「軍隊の町」であった。
 千葉市は工業人口が一、八六五人(一四・三パーセント)であるが、工場法適用の工場はわずかに三四であった。千葉警察署管内の工場懇話会の加入工場は四五〇であり、この数は零細な工場のすべての数といってもよい。県下の工場懇話会に加入している工場は約五千三百であったから、千葉市はいまだ工場は多くはなかった。千葉市の工場・工業人口として、金属工業として鍛冶屋、せんい工業として洗濯屋や和服仕立屋、紙工業として印刷工や写真屋や表具師、食料品工業として菓子製造、建設業として大工などの就業者を計算した統計であった。大工場とその従業員という工業ではなく、家内工業と職人という工業段階であった。
 また交通の中心地としての千葉では鉄道員の多いことが目だっていた。ようやく自動車業が荷物や人の輸送に使われて、運転手も一〇六名もでてきた。しかし他方には人力車や馬車ひきもまだ多かった。農業人口は農業経営者がすくなく、作男、作女が多く、この点は水産業でも漁業労働者が多くなっていた。最後に千葉市の就業人口の構成上で退職者(無業)がかなりの割合をもっていたことが一つの特色となっていた。千葉市には退職してから恩給で生活する役人・軍人が多かった。
 かくて大正~昭和期(戦前)の千葉市は県政の中心地、交通の中心地、医者の千葉、軍郷の千葉という消費都市であった。これらのサラリーマンと農家を相手とする小売商の町であった。工業といえども農産物の加工業として参松千葉工場(飴・葡萄糖)、日東製粉千葉工場(製粉)、寒川製紙工場、大野度量衡器製作所などがあったが、大部分は都市住民の需要に応ずる零細な家内工業であった。千葉市は決して生産都市とはいえなかった。