吾妻町三丁目宗胤寺前―通町線(長さ二九〇間、幅二間、平坪五八〇坪、工費六八五円)
通町―市場町(池田橋)線(長さ三八〇間、幅三間、平坪一、〇四〇坪、工費五〇六円)
市場町―千葉寺弁天台坂下の線(長さ四一四間、幅二間、平坪八二八間、工費五三二円)
これが中心商店街の中の街路であり、幅が約四~六メートルである。この街路の改修費は、街路がある区が負担しなければならなかった。街路の改修と新設が区費の負担であるかぎり、街路計画はいつまでも進行しなかった。明治時代にその他に一三線の街路の改修・新設が計画された。これらの街路は市街地がひろがっていく方面における街路計画であった。しかし街路の改修・新設には区費で賄うことが改正されて、町費から支出することが前提条件となった。
大正十一年(一九二二)、千葉市街計画調査委員会が設置された。市制を施行して都市建設を軌道にのせることが目的であった。街路計画は千葉市の中心とひろがりゆく郊外を結合する街路の建設にあった。委員会は二カ年の調査期間をへて二七線の街路計画案を提出した。翌十二年に市会は原案の一〇カ年継続事業とその費用約七〇万円を減額して三五万円で施行することに決定した。この事業は街路の総延長八、七一〇間橋梁一九の建設であった。この街路計画ははかどらなかった。当時の道路敷地は地主から寄付をうけて土地買収費を計上していなかった。地主の反対があれば道路はできなかった。そのため土地買収を市議会は決定したが、多額の買収費もなく、地主との買収価格もまとまらなかったからである。大正十二年関東大震災、千葉市にも被害がすくなからず、その後の土木費はこの復旧費に消費された。
千葉市の都市計画 昭和期に入って市議会は千葉都市計画調査委員会をおき、都市計画法を実施する準備をした。昭和四年、市議会は都市計画施行案を可決した。昭和五年内務省から「都市計画法ならびに市街地建築物法施行地」に指定された。ここで千葉都市計画地方委員会を設置し、昭和七年に都市計画地域とその事業を決定した。このとき都市計画の用途地域の指定はしなかった。これは工業地区の決定は工場誘致の支障になると考えたからであった。
都市計画地域は調査委員会では「県都を中心とする半径一里半以内の市町村、すなわち千葉市、検見川、都賀、都、千城、蘇我、生浜」の一市六カ町村とした。しかし決定された地域は
本都市計画区域ヲ案スルニ将来交通機関ノ相当普及発達シタル時期ニオイテ 約二、三十分ニシテ市ノ中心点ニ到達シ得ヘキ距離ヲ以テ其区域トスルヲ適当トスヘク 更ニコレヲ市勢発展ノ方向 地形 行政区画等ヲ参酌シ 将来経済的ナラビニ社会的ノ連関ヲ考慮スルトキハ 市ノ東方都村ノ平坦地、医科大学 国立試験場ノ丘陵地ヲ含ミ 北方都賀村ニ在リテハ学校連隊ヲ含ム丘陵地トコレニ連続スル平坦地ヲ包含セシムルヲ以テ適当トスヘシ
とされている。また都市計画事業として、街路の改修、新設、下水道工事、高潮防波堤の設置、緑地の設置、土地区画整理などであった。これらの市営事業に対して、県営都市計画事業として、椿森跨線橋、葭川跨線橋、都川護岸工事、上水道の新設、出洲の海岸埋立、椿森高台にいたる県道などがあった。
この都市計画街路は幹線道路が三〇路線、延長五万二千七百メートル総平坪四万二千六百平方メートルであった。また昭和十二年検見川町・蘇我町・都賀村・都村を編入した。これらの道路は合併条件として改修された。その延長は約三万六千メートルであった。これらの道路の改修・新設は昭和十七年までに完了に近づいた。この事業費は国庫補助、県費補助、市費負担、受益者負担によった。市費負担は起債に財源を求めた。市内道路の路面鋪装は昭和七、八年からはじまった。それまでは中心市街の街路でも雨が降れば泥道となった。自動車が市内交通機関に使われる大正末から、雨の日は道行く人々は自動車のとばす泥をさけるために大騒ぎをした。市内を通過する国道と県道は昭和七年から鋪装された。市道は昭和八年から時局匡救事業としてはじめられた。鋪装は交通量が最大の街路からはじめた。それは本町二丁目千葉合同銀行の角から本千葉駅通りと、新柳菓子店の角から演芸館前の街路であった。路面鋪装は昭和十一年から大規模に行い、中心街の主な街路は完成した。しかし中心街と郊外をむすぶ街路は支那事変が拡大して、資材が不足しはじめたので、鋪装はできなくなった。
下水道の建設 都市計画事業のうち、街路の改修・新設につぐ大土木事業は下水道工事であった。市街地の下水道はもと田畑の間を流れていた排水路であったから、統一的な排水はできなかった。下水溝の構造は側壁が板かコンクリートであり、下水溝に底はなかった。そのため汚水は土中にしみこみ、ごみは汚泥となって底にたまっていた。その上に市街地は低湿地であったので、海面との落差は小さく、市街地の下水溝には腐水がつねにたまり、降雨があれば、下水溝から汚水が道路に流れだし、梅雨になると住宅の床下にまで汚水は流れこんだ。下水溝はいつも臭く、蚊やはえの発生源であり、伝染病の流行にも関係があった。都市計画は下水道を完備して、都市衛生を確立することが最重要な目標の一つであった。
昭和八年、市街地下水溝調査を行い、昭和十一、十二年に下水道工事をはじめ、同十五年に下水道計画を確立した。下水道工事の地域は、中心市街地の四一九ヘクタールとして、これを第一排水区から第七排水区にわけ、工事費三三一万円の継続事業とした。下水道の排水は一人一日平均一六七リットル(県営上水道の一人当り一日の最大給水量)とし、この排水量の二分の一を八時間で排出すると計算した。またこれに加えて一時間の量大降水量を五〇ミリメートルと算定した。この下水は都川と葭川と海に放流することにした。下水道の管は口径三〇 ― ―三八センチを陶管とし、口径四五 ― ― 一二〇センチを鉄筋コンクリートとした。この下水道工事は国庫補助、県費補助、市費負担、受益者負担(総額の三分の一)とした。下水道計画は第一排水区が昭和十一年四月に着工され同十三年三月に完成した。第二排水区以下は戦時下に入り、逐に延期し、戦後に持ちこされた。
土地区画整理事業 都市計画における街路網を改修することは、既成市街地を改造することであり、新市街地を造成することであった。この市街地の区画整理は昭和十年からはじまった。区画整理は北部区画整理と南部区画整理とにわけた。
北部区画整理事業は一一の整理組合にわけて工事し、総事業費が約二百万円、住宅地九二万坪を造成した。その中に東大第二工学部(現在は千葉大学の敷地)の誘致、国電西千葉駅の開設などがあり、海をひかえた閑静な住宅区となった。
千葉第一組合(設立認可・昭和十年十一月)
房総東線と大網県道にはさまれた区画、長洲町二丁目の水田地帯である。整理後の面積は一万三百坪、事業費七千四百円、組合員三四名であった。
汐見ケ丘組合(設立認可・昭和十一年三月)
京成電鉄の新千葉駅と千葉海岸駅までの地区、整理後の面積は約四万六千坪、事業費約四万三千円、組合員一五名であった。
新宿組合(設立認可・昭和十一年三月)
千葉組合(設立認可・昭和十一年七月)
京成新千葉駅に接し、汐見ケ丘組合地区につらなる。整理後の面積は約二万二千坪、事業費約五万四千円、組合員五九名であった。
吾妻台組合(設立認可・昭和十二年九月)
新町の裏手で荒木山公園に近い高台をふくむ地区、整理後の面積は約六万二千坪、事業費約五万四千円、組合員は五九名であった。
稲毛第一、第二、第三組合(設立認可・昭和十三年十二月)
国電稲毛駅と京成稲毛駅をふくむ両線路間の地区、整理後の面積は約一五万二千坪、事業費が約八万七千円、組合員一六六名であった。
検見川組合(設立認可・昭和十四年九月)
京成検見川駅の周辺の商店街地区として整理し、住宅営団も建設した。整理後の面積は約一万五千坪、事業費が二一万円、組合員が一三九名であった。
荒木山組合(設立認可・昭和十六年二月)
荒木山公園と綿打池に接する地区で国電千葉駅の裏手の道路を整理した。整理後の面積は約四千七百坪、事業費が約七万円、組合員が四二名であった。
弥生ケ丘組合(設立認可・昭和十六年二月)
国電西千葉駅と稲毛駅との中間にある地区、整理後の面積は約三六万坪、事業費が約四〇万円、組合員九三名であった。
南部土地区画整理事業は千葉市の市街地先の海面埋立に対する背後地の区画整理であった。内務省が東京湾を東京地先から千葉県五井地先まで一大埋立地帯の造成を計画した。この一環として千葉地先に約八九万坪の埋立地を造成し、ここに工業人口が約一万、その家族を加えて約四万の工業地区をつくる計画であった。この背後地にある一三四万坪を区画整理しようと計画をたてた。この臨海工業地帯の造成は戦後に行われ、区画整理事業も計画だけに終わった。