米作

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 明治四十年と大正九年を対比すると、面積で七パーセント、収穫は二七パーセント増となり、前述(第六節第三項)した稲作三要項、品種統一の効果があがったものとみなされる。
 県農会主催、第一回稲作共進会が大正九年三月に行われた。県の出品九六点中、五八点が受賞。千葉郡内では四等に四点入った。検見川の宍倉良(三・三三石)、白井の西郡文平(三・二八)同宍倉俊一、誉田の大塚時蔵(三・二〇石)である。一般の反当収量は一・六七石が近時一〇年間の平均であった。出品の品種は愛国三一、神力一五、竹成六という順序であった。
 水田の八割が都川、鹿島川、花見川、稲毛川に沿った侵食谷に分布し、沖積土壌が厚く堆積した、排水の悪い湿田が多かった。排水が悪いばかりでなく、洪積台地を侵食した壁面、谷頭、谷底からの湧水があり、泥土で保水性もあるところから、農業用溜池の不備を補ってきた。このような地点は乏水性の台地農村にとって信仰の対象とされ、弁財天を祀るささやかな社殿が多く見られる。

紅嶽清水弁財天(藤田慎君のスケッチ)

 椿森と高品の中間に位置する水田は、胸までもぐるといわれた深田で家畜は使用できず、田植には竹竿を渡し、これを頼りに行った。刈入れには接地面積を広げ、泥田にはまりこまぬよう工夫した田下駄(三〇×五〇センチメートル、井桁状)を利用した。この土地改良には萱を敷き、その上に置き土して労働を容易にし、収穫向上を図った。田下駄使用範囲は葭川沿いである。都川沿いの加曽利でも大正大震災前まで使用されたというが、震災による地変で滞水層が低下したので見られなくなった。暗渠による排水の奨励を郡農会で採用したのは、明治四十二年であった。山口県富田式を採用、都賀で実験、成績良好だが比較的多大の費用が要るので、共同施行の必要を認め勧奨することになった。千城村大草で一〇名の所有地四・四町歩の実施をもって始めとする。作物の根が呼吸作用を行い、有機物の分解が進行するには、土壌中に空気の流通が欲しいが、湿田はこれが透過を妨げるし冷いので収穫を低減させ、雑草すら生えぬところもある。昭和四年からは県当局で工事万端を指導、四分の一補助をつけることとなったが、実施田は微々たるものであった。松や雑木枝を用い、労力は自らの手間とすれば、反当延長八〇間分(約一三〇メートル)三〇円あれば二〇年間有効と『愛土』で説明している。

5―15図 樹枝状の水田分布   (昭和9年ごろの地形図による)

 町村別の状況は前掲の指標を参照して、地域性を推察したい。