麦作

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 台地の卓越した地域では自給用に大麦の作付は欠かすことができない。消費生活の多様化にともない、ビール用大麦、製粉原料としての小麦は、この地域で重要な商品作物でもあった。明治三十七年以来、麦作二要項として塩水選及び冷水温湯浸法を奨励して、種子の選択と麦奴予防(黒穂病)に努めてきたほか、講話、実地指導を充実させ、品評会を催してきたので、増収ならびに改良の効果目ざましいものがある。その後の一五年間には作付面積で二二パーセント、収量は三四パーセント増となった。産地として幕張が首位、誉田、更科、都賀、検見川、犢橋がこれに次ぐ。明治末年には小麦は四分の一にすぎなかったが、大正九年には四七パーセントで、大麦と伯仲していた。
 幕張町長作新田における増収組合幹事、秋山善次郎作詞になる「麦作改良ひとつとや節」を紹介して、改善努力の具体的方法をみよう。
 ○双葉のうちより怠らず 踏圧いたせば軸太り 風雨にあうとも倒りゃせん ○実りのよいのは過燐酸 丈のできるは窒素にて 稔りをよくする加里肥料 ○良きも悪しきも種次第 塩水選に温水選 いたせば五割の徳がある ○いつも堆肥をこしらえて 金肥の節約いたしゃんせ 堆肥は肥料の王なるぞ ○三石取りは在来で 少し改良したならば 五石 六石わけもない。

 増収と並んで商品としての販売には取引先が確保され、価格の安定有利なことが望まれる。一方企業側も指導により統一された原料を入手できる有利さもあって、郡農会を経由するビール麦の共販、契約栽培が、明治三十五年から開始された。最初は大日本ビールと契約締結、ゴールデンメロン種の栽培を続けたが、明治四十四年、栽培の不手際があって病害を受け、中断した。大正六年、改めて横浜キリンビールと契約、九年には契約三千石で、同会社の契約地である山武、君津、市原、海上、匝瑳の各郡合計高の四分の一弱を占めた。普通麦より石当り三~五円の利があった。
 小麦は日本製粉と取引し、二百石で県下の一八パーセントの占有率を誇った。