甘しょは千葉郡を代表する産物である。明治四十年に比し大正九年には、作付面積で二割増し、収穫量では実に五割増しの好調を示した。反当たり収量は明治中ごろ、一〇アール当たり七九一キログラム平均であったのが、同末期には一千キロを越え、明治三〇年代に出現した「立四十日種」は、三千~五千キログラムに及んだ。この品種は都賀村原の人高山徳蔵と妻はるが、つる返し作業中に発見した。つる返しは炎暑の中で労働はきびしく、しかも意味の薄い不経済な作業部分であったから、短つる種として固定された。昭和十五年頃、沖繩百号が現われるまで、蘇我のでん粉業と結んで、好調に普及された。食用、販売用として名声をえた「千葉赤」は大正八年に名付けられたもので、原種は川越産紅赤種である。郡農会では風土に適した品種を求めるため、二百円の予算、三カ年越しに努力した結果、優系の改良淘汰により固定した。著名な甘しょつくり篤農家、天戸町湯浅幹、検見川の山中文司が委託を受け改良にたずさわったものである。
これら特色ある品種のいも苗販売は、栽培より優れた名声に輝いていた。不正商人の競争にまどわされたり、不良品を植えて損失を招くことのないよう、確実で信頼されることが苗商人の徳義であるべきで、郡農会が価格協定、あっ旋を行った。百本をもって一束、五本の割増しを入れて、種類、生産者名を明記したラベルを付けた。北海道・東北・長崎から上海に至る販路をもっていた。千本につき千葉赤は一円一〇銭、籠に入れる包装代三〇銭、客車便で東北までの運賃一円五〇銭を要した。大正初期の苗床面積七万八千九百坪。別に九千坪のねぎ苗床、一千坪のきゅうり、二千坪のなすなどがあった。この方面の先覚者は天戸の湯浅幹であった。