都市の発達と人口の増加があるので需要は相当に見こめるが、栽培状況はきわめて幼稚で、供給はほかから求めていた。大正四年以来、各種品評会、競技会の賞品として苗木を交付し、また、御大典記念植樹として、小学校にぶどう棚を設け、運動場周囲の空地に、びわなどを植えることを奨励した。『郡誌』によれば、当時の調査では作付け六二町歩とある。しかし、栽培の状態は、宅地周辺、原野などに点在し、園としてのまとまりがない。もっと時勢を察して積極的に開発の方策を行うべきだと述べている。金額により県内の産出額との比率を求め、郡としての特色を抜きだすと次のような結果になった。
明治三十三年の年報では、柿六、三二一円で一六パーセント、梅六四二円七パーセント、桃六八一円五パーセントが優れていた。『大正元年統計書』では、柿二千八百円四パーセント、梅二千八百円五パーセント弱となり栗四千六百円が県下の一七パーセントを占め躍進した。樹数約一万本で三百石の収穫があったという。明治四十四年の『農友』誌には単純栗林の利益として、「栗は鉄道枕木に重用されるので、延長に従い需要も大となった。水に腐朽しないので、橋や柵、垣根にも用いられ、家具割板としても重宝。目下の急務として農商務大臣から県知事に訓示があり、昨年より特殊林として、政府保護のもと、育苗をするようになった。杉・桧は四〇年も経たないと一本一円にならないが、栗ならば二〇年で一円になるのは容易である。地質を選ばず、東・南面する山の中腹が第一だ。」とある。