肥料経済

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 作物商品化の進行は、品種の改良統一、共販体制、規格検査などの施策を県と農会にとらせたが、内部的には肥培増収の決め手になる肥料経済の考察が必要とされた。開墾の進行による自給肥料の不足、現金収入と商品経済の発達は、この傾向に拍車をかけるものであった。明治四十一年に県から「肥料取締細則」が公布されるが、この頃の農家経済について話題を整理してみよう。
 農村にいて百姓をやりながら、仲買だの株式に心を奪われるから、町村の勧農策は少しも実があがらない。
 形を飾るのみで実体の伴わぬ農村の荒廃をどう救済するか。一家が食うだけのものを作れ。外から買うようではダメである。金肥は施肥量の三分の一に止めよ(疑わしい肥料も市販されている時勢だ)。副業を営み現金をうることも大切だが、金に酔って使いはたし、借財するようではいけぬ。農事改良には資本が要るが、必ず自分で出して、農村経済の独立を図らねばならぬということであった。
 『農友』誌明治四十一年十一月号に斎藤農商務省技師は、
 近頃一〇年位で技術の進歩、輸送機関の発達にかられて、肥料供給を主として人造に仰ぐことが、山間僻地にもいきわたった。県内製造の魚肥は明治三十七年一五五万貫四四万円、同四十一年二三一万貫六一万円だが、県外より移入する大豆粕や、人造肥料は、一、七二〇万貫一一二万円、二、九七八万貫二二四万円に上がっている。安価良好な屎尿を指標に、稲作肥効を比較すると、干鰯一〇二、大豆粕一一二、米糠八二のデータが農科大学から出されている。従って高価な魚肥を外に売り、安価な大豆粕を求めることが当をえている。思うに、本県麦作は小穂細粒で甚だ貧しいもの、これは速効性成分の欠除した濫造品と、土地の悪変となり、惰農を慣養するに至る。堆肥製造を奨励するのが良策である。あるいは共同購入の一途あるのみ。村をまとめて郡に及び、有勢な肥料商を説いて、安価に所望のものを提供させ、農家に配布することだ。」

と説いている。
 同じく『農友』誌明治四十二年十一月号で河原農学士は、
 明治四〇年頃の満州から輸入される大豆粕は七百万枚位、大正六年にはこれが五倍を上廻る程になった。第一次大戦の始った大正三年から、硫安が輸入杜絶となったから、代用として遅効ではあるが、これ以外にはないというわけである。

と述べている。
 本県では八八六万円の購入代金のうち、大豆粕は四五パーセント、次いで過燐酸一割余がある。千葉郡は反当たり八・六四円、一戸当たり百円余の支出で県内首位である。明治三十三年の米一石の価格一一円三二銭に対し、四十二年一五円五四銭(一・四倍)、大正八年まで一〇年間平均は二一円一三銭(一・九倍)ただし米騒動のあった七年は三倍、八年四倍、九年一月には五五円二〇銭(五倍)となる。米一石で求めうる大豆粕は平均一〇枚で、米価と結びついて変動している。したがって堆肥の製造、緑肥つくりを盛んにして、これらを主体に燐酸、粕、草木灰を合理的に配分し、少肥多収の実をあげることが大切である。
 『県農会報』大正九年九月号で県長谷川技手の論説によると、これまでの供給不足が一変して過剰となり、消費者への脅威が一転して、生産者への火の粉となって降りかかってきたのはこの頃からで、農民が沈黙と服従の美徳を捨てたのは、米価最低基準三五円を割った大正十年以降であった。