昭和四~五年になると、経済不況は急速に悪化した。物価は下落する一方、モラトリアム(公認された支払い延期)を叫ぶもの続出、負債の棒引きを要求するものもあった。役場吏員の給料不払い、娘の身売り、小作争議など陰惨な問題が続出、農村という言葉は、貧窮の代名詞であるかの感があった。有為の人材、発溂たる男女青年が、農村の前途に失望して村を去り、いよいよ沈滞の淵に沈んでいった。
昭和七年五月一五日の事件の後、斎藤内閣による臨時議会は、救農議会といわれるほど、農村対策に重点を置いて、審議が行われた。応急策としては大土木事業施行による資金投下があり、恒久策として経済更生運動が実施される。
前項でもいろいろ羅列してきたが、農村を立て直し、農民の福祉増進を図るには、挙村一致の協力と自力更生の気構えが肝要で、これを欠いては到底、目的を達することはできなかった。関連諸機関は自力更生に関する、村民精神の緊張と覚醒を促すため、全力を挙げて計画の策定実施にとり組んだ。
都賀村は交通不便のため、農産物販売の機を失すること多く、また運搬費過重で、村民負担が大きかった。改修計画はあるが、即時断行は不可能、とりあえず部落ごとの担当を決め、月二回以上の修繕日をもち、降雨に車馬杜絶することのないよう、注意を怠らぬことを申し合わせた。水稲品種を改良種に統一すれば、六パーセートの増収を見込めるとし、五カ年計画で更新しようとした。五年生以上の生徒・児童に、一人一兎の飼育を奨め、副業収入を期した。
白井村では既耕地七八八町歩に加え、一六町歩の山林開墾を実施。空閑地利用として、毎戸栗を植えるよう指導。また、自給用堆肥反当たり二百貫の、一斉積込みを行うべく、三二名の督励委員を設置した。
更科村では、特産品の葉付きしょうがを共同出荷して、販路拡張を図った。山林に自生する篠(ささめ)を採集、加工する技術研究を行った。
千城村は品種の改良統一により、水田二八七町歩から二二四石の増、畑三九四町歩から七百余石の陸米を増収しようとした。
土気本郷町では、大麦の暴落から作付を水田裏作に転じ、有望な小麦に切換えることを奨励した。質素倹約を旨とする。記帳による予算生活、自給自足の勤労生活により、治産の方途を講じた。