金肥節約、自給肥料の増強は各機関で奨励され、いろいろの方策があった。畑作に必要な堆肥は、反当たり二五〇貫として、山野からの草刈りを励行させ、品質良好なものは干草とし、軍用にされた。家庭にある灰もカリ成分補給として効果をあげるように要請され、肥料自給化は、精神の緊張と食料確保に邁進することの立証手段であるとされた(『愛土』昭和十三年)。
千葉の篤農家長島良作は、昭和十二年六月「緑肥の効能を語る」の一文を、農会誌に投稿している。始めてのことでもあり、根りゅう菌の配布を受けるなどして、反当たり八百~千三百貫をあげた(れんげ草)。刈取ったものを一~二寸に刻み、一面にすき込んだら土質がやわらかくなり、大豆粕四枚のところ二枚で間に合った。堆肥や下肥を施さず、八~十俵の収量をあげた。特にカリを注意して供給する必要があった。
林野に恵まれぬ平坦地では堆肥源に乏しいので、屎尿の供給を受けていたから、一般に緑肥に対し関心が無かったうえ、栽培には排水の良い土地を選ぶ必要があるので、実施を見るのは微々たる数であった。
東京からの屎尿受入れについては契約取引であり、農会があっ旋した。
昭和九年四月、各町村における貯留槽の位置も決定、受入れ石数も決まったという報告がある。誉田村野田八石、千城村大草と仁戸名で二〇石、都村貝塚に一〇石、犢橋と長沼二カ所で六〇石、検見川では稲毛と畑部落合わせて三五石と伝える。