耕地整理

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 農業経営の基礎となる耕地整理、排水施設については、大正期に若干の例がみられるが、昭和期に入っても進行は遅かった。昭和五年統計書によると、工事中一、完工一、登記済四、同完了二、計八カ所三二三町歩の施行について触れている。
 昭和十五年のそれでは、十年までに一三カ所四一七町歩、十~十五年には七カ所二四八町歩とある。計千町歩に近いが重複など定かでない。
 樹枝状の浸食谷に分布して、ある程度の規模にまとめにくく、水田面も微かな段差があり、一括整理しにくい条件により、耕地整理は阻害される。同一の谷間にあっても谷壁に近い部分は田のレベルが高くなるから、保水性が悪い。都村辺田では、苗代期の用水不足のため、八キロメートルも上流から引水し、一週間も水番して十分ではなかった。昭和二年六月には、用水組合を結成、一三馬力モーターで揚水をすることにした。費用四千円を投下したが、乾田化して緑肥、空豆、きゅうりを作り、三毛作多収入を期待できたという。
 花見川流域の長作、天戸一帯も、少しの日照りに水不足を告げ、用水池、河川利用も覚つかなく、雨乞いをする始末であった。昭和二年、長作の地主中台尚友を会長とする有志一五名で組合を結成、田の面を掘ること一二〇~一五〇尺(三六~四五メートル)で掘抜きの清水が湧出した。地下一メートルの所まで水頭が達したという。二馬力の石油発動機で汲み、一昼夜で一町五反を潤した。この経費は、掘り賃一二〇円、機械四百円、ポンプ小屋六〇円で、運転に要する石油は一昼夜につき七升で二・一円、運転手当二円であった。昭和三年六月一日付『千葉毎日』によると、白井村野呂は知られた旱害地で、大正十三年から連年苦しめられてきた。部落七百余戸で利用組合を組織し、出資総額五千円余で一〇カ所に井戸を設け、ポンプ揚水して、荒廃水田百町歩に美田を期するものであった。前記長作の成功が応用される、県下初の事例となったと報じている。
 集約的な手労働に代わり、次第に機械の普及する様子も想像できる。

5―16図 地帯別蔬菜園芸奨励計画
(昭和11年4月町村農会職員会議)