農具

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 「三里隔たれば、くわも変る」と近世の諺があるように、地形、土性、慣習、文化の相違により、農具にはさまざまな形態があった。人力に頼る零細農具から、明治初年の輸入プラオに模した畜耕すきが、二十年代ころから改良、普及された。都市に吸収された労働力補充に役だって、末期には総面積の七割に及んだと、小野武夫は『明治農村史』で述べている。千葉県は三里塚に御料牧場があった関係で、香取・海上郡下に、明治二十年代先覚者が現われ、県農会指導教師として普及に務めた。畜耕は、耕地が散在し、狭少な場合には能率的でないから、耕地整理などの前提も必要となる。千葉郡下では条件にかなわず、微々たる実施を見たにすぎない。
 脱穀作業には、従来、くるり棒による打落し式があり、こき落しには近世に改良された「千歯こき」がある。明治末年になって、足踏式回転脱穀機が発明され作業能率が高まった。千歯式は一人一時間の効率四斗三升であるに対し、回転式は一石三斗で約三倍となる。二馬力石油発動機を用いれば、三人で一一石となり、さらに三倍の能率向上となる。このための装備費六三〇円は、中堅三〇戸が共同使用すれば、一年で回収可能であると、大正十三年二月県農会動力主任は説明した。機械装備率について、時代はややずれるが、昭和二十六年に報告された「千葉県農林業の概観」によると、千葉郡市では二十五年現在、人力脱穀機三、九八一、動力脱穀機一、六一九、万石どおし二、八六〇、籾すり機一、一六〇、製繩機一、七七九があった。本業・副業合わせ約九千戸の農家所帯に対する所有台数が以上のようである。
 水田の中耕・除草には、明治二十五年に工夫された「太一車」が後半期に伸び、別名「日傭人殺し」といわれたが、その後改良されて「転土式舟形除草器」となり、郡市内一、六二四台の普及をみる。ポンプ式揚水機は五一台を数えた。

古い農機具(坂月小学校コレクション)